不意にクッと斜め後ろから服を微かに引っ張られる感覚がして視線を向ければ、イルフェスがクロードの服の裾を掴んでいた。
刑事からは見えない場所ではあった。何か言いたげな様子で此方を見つめてくる瞳に注意をするべきか、話を聞いてやるべきか悩み、結局注意を放棄して問いかける。
「どうした、イルフェス。」
声をかけただけで嬉しそうにパッと表情が明るくなり、それから真面目な顔で地図を指差した。
「あの、その右のはじっこにある印の近くで、ヘンなにおいがしました。」
「変?どんな臭いだったか覚えてるか、坊主。」
「えっと…えっと……、」
イルフェスの言葉に、そういえば今日の昼過ぎ頃にこの辺りを馬車で通ったなとクロードは思い出す。確かにあの時、臭い!と声を上げていた。
瀬那が何も臭いはしないと言っていたので気にも留めなかったが、今思えば体調を崩していて臭いに気付かなかった可能性もある。
必死で思い出そうと悩むイルフェスに視線を向ければハッと茶色の瞳が見開き、歪む。
一度見た事がある様子だった。
瀬那のいる所に自分も連れて行ってくれとせがまれた時に見た泣く一歩手前の表情だ。
しかしクロードの予想に反して茶色の瞳から涙は零れ落ちず、それでもギリギリまで潤んだ瞳のまま小さな口が開く。
「ち…地下室の、においと…にてました。」
思い出してしまったのか、唇を噛み締めて足元に視線を落とすイルフェスの頭をクロードは黙って撫でてやった。ポンと乗せるだけの何時もと違い、褒めるように、慰めるように極力気を付けて小さな頭を撫でる。
刑事も視線をテーブルに落として気まずげにソファーに座り直す。
イルフェスはすぐに袖で目元をゴシゴシと拭うと顔を上げて‘役に立った?’と言った表情で此方を見る。クロードもそれに返事をするように二度、軽く頭を叩いて手を離した。
そうして刑事の方へ向き直る。
「疲れているところをすまないが、此の橋の近辺も調べておいてくれないか。」
「分かりました。まぁ、伯爵の指示とあれば溝(ドブ)だろうと下水だろうと探させて頂きますよ。」
「それは頼もしいな。」
皮肉とも冗談ともつかない言葉に笑いながらクロードは立ち上がる。
同時に刑事も立ち上がり、一度握手を交わして客間を出て行った。
外に控えていただろう使用人と共に去って行く刑事の足音が聞こえなくなってから、イルフェスが小さく唸る。
今度は見なくても分かった。泣いているのだ。
仕方なくソファーの自身が座っている隣を軽く叩いてやれば素直にそこへ座る。
頭を軽く撫でてやれば小さな体が勢いよく抱き付いて来た。
客人の前だから泣かずに我慢していたのだろう。瀬那と言い、イルフェスと言い、どうしてこうも自分の近侍は人前で泣くのを嫌がるのだか。
どちらにせよ自分の懐に入れてしまった以上、クロードには自ら引き離すという選択肢は残っていなかった。
他者よりも人間という生き物の欲深さや惨忍さを思い知らされる職業に就いていると言うのに、情を捨て切れないのは自分の悪い所であり、直し様もない所でもある。
腕の中でしゃくりを上げながら泣く子どもの背を撫でてやりつつ、自分も大概甘いものだと小さく息を吐き出した。
「え、イルも連れて行かれるんですか?」
医者が処方した薬のお陰か少し熱も落ち着いた瀬那がベッドの上で目を丸くした。
とは言え、まだ熱が大分残っているのでその顔は赤い。
シャツにカーティガンを羽織っただけの格好なので見る者が見れば、すぐに性別がバレてしまうだろう。瀬那の部屋は執事と自分以外出入り禁止にして正解だ。
「あぁ。」
「そんな…いくら何でも早過ぎますよ。」
予想通り眉を顰めて半眼で睨み付けてきたが、弱っている人間に凄まれても怖くも何ともない。
無視してその手へミルク粥の入った皿を手渡せば渋々といった体でスプーンを口に運ぶ。
丈夫なのが取り得と言っていただけあって半日でかなり回復しているようだ。勿論、だからと言って仕事をさせるつもりはない。
使用人達にも瀬那が何か仕事をしようとしていたら即刻部屋へ連れ戻すよう言い置いてあるので、自分がいない時も問題は無いはずだ。
「そうか?イルフェスも何時も手伝いたがっていたじゃないか。」
「あれは…多分、カッコイイとかそういう憧れからくるものだと思いますよ。」
「そうだったにせよ、ついて来ると言ったのはイルフェス自身だ。」
あの後、泣き止んだイルフェスはグッと両手を握り締めてクロードに言った。
「セナの代わりに、ぼくもがんばります!」と。
今日出掛けると言った際もついて来る気満々だった。自ら望んでいるのなら他人がそれを止める権利など無い。
瀬那もそれを分かっているのか口を噤む。
実の弟のように可愛がっているだけあって危険な仕事に巻き込むことを躊躇っているのだろう。
「イルフェスにもしもの事があった時は、私を恨めば良い。こんな血生臭い世界に引き込んだのは元はと言えば私なのだからな。」
そうすれば瀬那もイルフェスもそれを理由にいざとなったら逃げれば良い。
自分達は‘巻き込まれた’だけなのだと。
しかし瀬那はただ困ったような、それでいて少し怒ったような表情を浮べて首を振った。
「いいえ、恨むだなんてとんでもない。拾って、此処まで世話を焼いてくださった伯爵に感謝こそすれど、恨むだなんてお門違いですよ。」
「……そうか。」
「何より私もイルも自分で望んだ事ですから。」
むず痒い気持ちを誤魔化すようにクロードは乱れてもいない襟元を正す。
普段が捻くれているだけあって、時折ふとした時に素直な言葉を向けられると妙に気恥ずかしい気分になる。
それを流すように瀬那が「あ、」と声を上げた。
「きちんとイルを見ていてくださいね。あの子、素っ飛んで行ったらなかなか帰ってきませんから。」
分かっている、と言おうとして、この会話はまるで鉄砲玉な子どもに苦労する夫婦みたいじゃないかと気付き、頭を抱えたくなる。
それを理解しているのか「さっさと食べて、お前は眠れ。」とつっけんどんに話を変えたクロードに、耐え切れない様子で瀬那が笑い声を上げた。