鼻腔をくすぐる良い香りに自然と目が覚めた。
見慣れた天井が視界いっぱいに広がっていて、逆に一瞬ここがどこなのか分からなくなってしまう。
ややあってわたしの部屋だと思い至った。視線を天井からゆっくり動かしていけば、ベッドの傍には椅子に座って読書をしている伯爵がいた。
何気なく本を脇のテーブルに置き、こちらを向いた伯爵のブルーグレーの瞳が驚いたように見開かれ、椅子から立ち上がった。額のタオルが外されると温い空気が額を抜けていく。
まだ夢の途中なのだとぼんやりした頭で勘違いしてしまい思わず問いかけてしまった。
「…あの人は…、?」
わたしの問いに伯爵は不思議そうに「あの人?」と聞き返してくる。そう、あの遺体安置所に運ばれていった女性のことだ。
そこで漸く今さっきまで見ていたものが夢だったのだと気付く。
一年経ったのにあそこまで鮮明に覚えているということは、わたしにとって、あの瞬間の記憶は印象がかなり強かったのだろう。
伯爵は少しの間、視線を斜め上へ向け、それから何かを思い出した様子で「あぁ。」と呟く。
「随分懐かしい夢を見ていたようだな。」
「はい。…もう一年近く経つんですね…。」
「受け止めたから良かったものの、もし階段から転げ落ちたら怪我どころでは済まなかったぞ?」
どこか憤慨した様子の伯爵に小さく謝っておく。
あの後、目を覚ましたわたしは伯爵に先ほどと同じ問いかけをしたのだ。
亡くなった女性はどうなったのか、と。記憶が正しければあの遺体は親族に引き取られ、ひっそり埋葬されたと聞いたはずだ。
今になって思い出すだなんて熱のせいで気持ちも弱くなっているのかもしれない。
喉が渇いていたのでサイドテーブルにあった水差しへ手を伸ばせば、伯爵が水差しからグラスへ水を入れてくれる。まだ怠い体は上手く起き上がれず、背を支えてもらいながら水を飲む。渡された水は冷たく、熱い体には丁度良い。
「食欲はあるか?消化の良い物を用意させたが…。」
先ほどから香っていた良い匂いは食事の匂いだったようだ。
あまり食欲はないけれど、食べなければ薬も飲めないので頷く。伯爵はわたしの様子を見つつ背から手を離してテーブルから食事を持って来てくれた。
ミルク粥だ。ミルクに砂糖とパンを入れて火を通したもので、甘い香りがする。
普段なら甘いものは少し敬遠してしまっていたが体が疲れているからか、ミルク粥の甘い匂いは全く気にならなかった。むしろ酷く魅力的な香りだ。
器を受け取ろうとすれば「熱いから触るな。」と注意される。
普段使っている銀食器ではなく、木で出来たシンプルなスプーンで粥を掬った伯爵は、何度かそれに息を吹きかけてからわたしの口許へスプーンを寄せた。
誰かに食べさせてもらうなんて十七年間の内、覚えている間には一度も無い。
恥かしさに顔を背けてしまいたかったが、食べろという無言の圧力と良い匂いに負けてわたしは渋々口を開いた。
スプーンが差し込まれ、口を閉じればゆっくり引き抜かれる。
程好い温かさと共に甘く柔らかなミルクとパンの味が口の中に広がった。思っていたよりも空腹だったようで、一口食べると胃の辺りが凹んでいるような感覚がしてくる。
差し出されるままミルク粥を消費していけば、あっと言う間に食べ終えてしまった。
「これだけ食欲があれば問題無いな。」なんて苦笑して伯爵は白い小さな紙に包まれた薬と水をわたしに手渡してくる。中身はやっぱり粉薬だ。
「…粉、ですか…。」
「我慢しろ。薬なんて大抵粉だろう?」
「錠剤作ってもらうよう言いましょうよ。…こう小さくて粒になっていて苦味もないから、飲みやすいですし。伯爵から言ってください。」
「そんな事で一々伯爵の地位を使おうとするな。粉薬くらい文句を言わずに飲め。」
飲むまで見ているつもりなのだろう。ジッと見つめられては諦める他ない。
粉薬を口の中へ入れれば独特の苦さが舌を襲った。慌てて水を含んで流し込む。薬ってこんなに苦いものだっただろうか?
先に甘いものを食べていたから余計に苦味が強く感じられるのかもしれない。
何とか飲み込んでホッとしていれば伯爵の手によって口の中に何かが転がり込んだ。
カラリと口内のものを動かしてみると甘い味が薬の苦さを緩和してくれる。…飴?伯爵を見れば苦笑しつつ「口直しに丁度良いだろう?」と言った。何もかもお見通しだったみたいだ。
拾われた当初の夢を見たせいか、何だか今の状況は酷く落ち着かない。
あの頃のわたしは伯爵を信用していなかったし、多分伯爵もわたしのことは偶然拾ってしまった子供くらいにしか感じていなかったと思う。
人生何が起こるか分からないという言葉があるが、本当にその通りだ。
ベッドに横になり、口の中にある飴を噛み砕きつつ椅子に座り直した伯爵を眺めてみる。
一年程前と変わった事と言ったら対応が優しくなったり過保護になったくらいものだ。見た目はほぼ変わっていない。無表情なのも相変らずだし。
「…どうかしたのか?」
本を手に取ったものの、わたしの視線に気付いたらしい伯爵が気持ち困惑を滲ませた声音と共にこちらを見る。ついでに言うとガリガリと飴を噛み砕く音が気になったらしい。
特に理由は無かったので首を振れば少し変な顔をされた。
それが可笑しくて笑ったわたしに伯爵は軽く息を吐き出して、毛布を肩まで引き上げてくれる。
「さっさと寝てしまえ。起きていては治るものも治らないだろう。」
額に冷たく冷えたタオルを乗せられ、その気持ちの良さにわたしは目を閉じた。