本来であれば従者であるわたしとイルは立っているのが常識だけれど、シャロン嬢とキースに座るよう促されてしまう。
伯爵も今日くらいは良いだろう。なんて言う始末である。
イルは素直に頷いて伯爵の右隣に座った。
わたしは正直立っている方が慣れてしまって楽なのだが誘われてしまった手前、断るに断れない。
諦めてイルの右隣に座る。つまり伯爵とわたしの間にイルが座っている状態となった。
勧められてクッキーを一つ摘む。伯爵と言いリディングストン家と言い、良い物ばかりを揃えている。…正直に言うと、とても美味しいクッキーだ。
一枚食べたイルもそう思ったのだろう。もっと食べたいのかクッキーの入った器を見て、そわそわしていた。
それに気付いたキースが「ほら、もっと食べろ!」と器ごとイルに押し付ける。
クッキーを大量に貰ったイルがわたしを見上げて来たので苦笑してしまった。
「食べても良いそうですよ。頂きましょう、イル。」
「うん!」
「けれど寝る前にきちんと歯を磨きましょうね。歯が痛くなってしまっては大変ですから。」
「セナも歯磨きするの?」
「勿論。わたしだけでなく伯爵も毎晩、きちんと歯を磨いていらっしゃいますよ。」
わたしの言葉に紅茶を飲んでいた伯爵が軽く咽(むせ)た。シャロン嬢は楽しげに笑う。
イルはイルで伯爵に何故だか尊敬の目を向けている。もしかしてイルは歯磨きが苦手なのだろうか?
ハンカチを渡すと伯爵はそれで口許を押さえたけれど、まだ何度か咳き込んでいた。
やっと咳が治まった伯爵がジロリと此方を見ながら「…お前は、一言余分だ…。」と掠れ気味の声でぼやく。失礼な。わたしは在りのままの事実を口にしただけなのに。
クッキーを食べるイルの頭を撫でてやりつつ正面へ顔を戻せばキースが笑った。
「セナも相変らずだなぁ。」
「お互い様でしょう?貴方も相変らず、貴族の子息らしくない振る舞いをなさっていますよ。」
「そうよ、キース。貴方はいずれこのリディングストン家の当主になるのですから貴族の品格を持ちなさい。」
「無理言わないでくれよ、姉さん。俺は警察達とあんまり馬が合わないんだし、当主になるなら姉さんの方が合ってるよ。」
そうあっけらかんと言うキースにシャロン嬢は溜め息を零した。
伯爵がハンカチを口許から外す。もう大丈夫らしい。
「そうだ、いっその事お前が当主になってしまえば良い。」
女性に対して紳士であれと言う伯爵だけれど、シャロン嬢には何時も容赦が無い。
やはり幼い頃から付き合いがあるだけあって、伯爵とシャロン嬢はお互いに対して遠慮はないようだ。
「嫌よ。婚期を逃しちゃうじゃないの。」
「そんなものとっくに逃しているだろうが。」
「あら、社交界の薔薇と呼ばれた私にそんな事を言うのは貴方くらいのものよ。」
キースが手招きしてきて、耳を寄せるとこっそり「セナと伯爵が話してる時って何時もあんな感じなんだぜ?」と意地の悪い笑みを浮べた。
なるほど、わたしと伯爵の会話はこんな風に聞こえるのか。テンポ良く飛び交う会話に思わず笑みが零れてしまう。
主人と従者にしては些か上下関係が曖昧になってしまっているけれど、多分それがわたし達なのだろう。
ああだこうだと言い合っていた二人は言いたい事を全て言ったのか、紅茶を一口飲んでから話を軌道修正した。
「それで、この間の件についてなのだけれど…」
チラリとシャロン嬢がイルを見た。
この話をイルの前でするには、まだ早い。イルの心はやっと新しい生活に慣れて落ち着いてきたところなのだ。恐ろしく哀しい思い出を無理に引き出してやりたくない。
クッキーで汚れてしまったイルの手を綺麗に拭ってやる。
「イル、一緒にお庭を拝見させていただきましょう。」
「?」
「伯爵はこれから大切なお話があります。リディングストン家の庭園はとても綺麗なので、お話が終わるまでわたしと見て回りませんか?」
「行く!」
イルが頷くとキースが立ち上がって「俺もヒマだから行くかな。」とわたしとイルを見た。
伯爵とシャロン嬢に断りを入れて客間を後にする。
何度かリディングストン家にお邪魔しているけれど屋敷が伯爵のところよりも広いので、屋敷の者がいなければ迷うかもしれない。キースが来てくれて助かった。
広い屋敷内で逸れては大変なのでイルと手を繋いでいれば、それに気付いたキースが反対側のイルの手を掴んだ。照れ臭そうに、とても嬉しそうに笑うイルの笑顔に私も自然と笑みが浮かぶ。
廊下の途中で擦れ違う使用人達はわたし達を見て一瞬瞠目し、それからすぐに僅かに目を細めると道を譲ってくれた。
庭園に出るとそこかしこで花が咲いているのが遠目にも見える。
まだ肌寒い時期だと言うのに此処の庭園は何時も何かしら花が咲いていて美しく庭を彩っている。
イルに‘花や植物を勝手に触らないこと’‘遠くへ行き過ぎないこと’をしっかり伝えてから、手を離した。一目散に花へ駆けて行く後ろ姿をキースと共にゆっくりと追いかける。
「話を聞かなくて良かったのですか、キース。」
さっそく綺麗に咲いている花の前でイルは座り込み、興味津々といった体で花の中を覗き込む。
触ってはいけないと言い含めておいたからか花に触れることはなかった。
「ん?んー、まぁ、伯爵の手紙で大雑把に聞いたしさ。セナだけじゃ屋敷ん中歩きづらいだろうし、話なんて後で姉さんから細かい事は聞けば良いって。」
「…ありがとうございます。」
「別に感謝されるほどの事でもないけどな。」
ニッと笑みを浮べたキースはわたしの横を離れてイルの傍まで軽い駆け足で近付き、一緒になって花の中を覗き見た。そうしてすぐに慌てた様子でイルを花から引き離す。
二人が花から離れると虫が一匹飛んで行った。蜂だ。
「お前やんちゃなのは良いけど、危ないだろーが。」とキースがイルの頭をやや乱暴に撫で回し、イルは嫌がる素振りを見せながらも笑い声を上げる。
その姿は少し年の離れた兄弟のようで、二人はそのまま庭園の奥へ入って行った。
穏やかとも言えるはずなのに酷く物悲しい気持ちになる。
きっと、この何とも表現し難い感情は一生わたしの中に燻り続けるのだろう。
仕方の無いことだと割り切ってしまえば楽になれるのに、それが出来ない自分が面倒臭いことこの上ない。伯爵にこんな話をしたら呆れた様子で「こんな事件など幾(いく)らでも在るだろう?お前らしくも無い。」とバッサリ言い切られるだろうが。
「―――…セナー!」