「ではイルは御者にリディングストン家に行く事を伝えてくださいね。その間にわたしは貴方の分の上着も持って行きます。」
「ぎょしゃ?」
「はい。馬車の前に座って馬を走らせている人のことを御者と言うんですよ。御者がどなたか分かりますか?」
「うん、分かるよ。御者の人に‘リディングストン家にいきます’って伝えればいいんだね!」
「えぇ、よろしくお願いします。」
仕事を頼まれたことが嬉しかったのか、イルはすぐに部屋を出て行ってしまった。
伯爵に退室の断りを入れてからわたしも自室へ戻る。壁にかけてあったコートを取り、少し離れた場所にあるイルの部屋へ入って上着と帽子を持って玄関へ向かった。
ホールには既にイルがいて、わたしを見つけて駆けて来ようとしたところを御者に制される姿に笑ってしまう。
伯爵とイルとわたしの三人で出かけるのはこれが初めてである。
すぐに伯爵も来て三人で馬車に乗り込んだ。ゆっくりと走り出す馬車の中、イルは意外にもはしゃぐことなく椅子に座っている。
けれど、やはり外が気になるのかそわそわしながら伯爵に問い掛けた。
「外を見てもいいですか?」
「あぁ。」
あっさり伯爵が許可してくれたことが嬉しかったのか、それとも車窓を見ることが出来て嬉しいのかイルはニコニコと窓に寄る。そうしてカーテンの隙間からこっそり外を覗き出した。
これなら下手に外へ身を乗り出したり手を出したりしないかな。
ジッと窓の外を見やるイルから視線を戻せば伯爵がいつの間にかわたしを見ていた。
「どうかしましたか?」と聞くと「大した事ではないが、」と前置きをして伯爵が言う。
「もうすぐお前を拾って一年になるのかと、ふと思っただけだ。」
少し前にわたしが考えたことを伯爵も考えたらしい。
というよりも、その言葉に少なからずわたしは驚いた。
「わたしを拾った日を覚えておいででしたか。」
てっきり忘れているだろうとばかり思っていた。伯爵はわたしの言葉にやや気分を害した様子で「拾ったのは私なのだから、忘れるはずも無い。」と怒られてしまう。それもそうだ。
何かと印象の強い事件ばかりが舞い込んで来ていたので正直この一年は随分短く感じられた。
そして元の世界から離れて一年も経つというのに、まだ心のどこかで後ろ髪を引かれるような思いが残っていることに苦笑してしまう。起きてしまったことは仕方がないと割り切っているつもりでも、所詮‘つもり’でしかない。
……あぁ、考えるのは止めよう。虚しいだけだ。
あるかどうかも分からない可能性に縋るよりも今をどう生きていくかを考えた方がよっぽど有意義だ。
「―――――……良かったと思っている。」
「え?」
「お前をあの時に拾って良かったと、そう言っているんだ。」
それは自分の知らない知識を得られるから?それとも良き相棒だと思ってくれているから?
どちらにせよ視線が重なったブルーグレーに優しい色を宿してわたしを見やる伯爵は、嘘を吐いていないのだろう。それが素直に嬉しい。
返事の代わりに笑ったわたしに満足したのか伯爵も目を細めた後に車窓へ視線を滑らせた。
時折あれは何、これは何と質問をしてくるイルに答えていると馬車が止まる。御者の「ご到着しました。」という声に馬車の扉を開けて先に出る。イルが出て、伯爵が出た。
伯爵の屋敷も十分広く大きかったけれどリディングストン家はそれを更に上回る敷地と屋敷を持つ。
この国が建国した当初から存在していたといわれるくらいの名門貴族なのだから当たり前だ。本来はもっと広大な敷地を有していたそうだが‘不必要過ぎるから’という理由で土地を売り払って孤児院や警察署を建てたり、街の人々の憩いの広場を設けたりと街の人々のために色々なことをしているうちに今に至るらしい。
屋敷も絢爛豪華とは言い難い。シンプルながらも気品溢れる建造だ。
それを見上げたイルが口を開け放して「うわぁ…!」と歓声を上げる。
初めてリディングストン家を訪れた時はわたしも思わず声を上げてしまったので、その気持ちはとても分かる。屋敷を見上げていたイルの後頭部を伯爵が軽く小突いて「行くぞ」と促した。
観音開きの大きな玄関扉の前に立ってノッカーで叩く。ライオンを模したノッカーを輝いた目で見るイルに笑ってしまう。
「それ、なに?」
「ノッカーですよ。部屋に入る時にノックをするでしょう?これは玄関扉をノックするためのものですよ。」
ノッカーで扉を叩く仕草をすれば声を上げた。
「ぼくもやりたい!」
「では、今度ノッカーを使う機会がありましたらイルに叩いてもらいましょうか。」
「それは構わんが、力一杯叩くなよ。」
「はいっ!」
嬉しそうに返事をするイルの頭を撫でていれば、目の前の扉のノブが回る。
扉からイルと共に離れれば一拍の間を置いて扉が開かれた。
出てきたのは執事だったけれど伯爵とわたしを見ると穏やかに微笑んで中へ招き入れてくれる。そうしてすぐに傍にいたメイドへシャロン嬢とキースを呼ぶようにと声をかけた。
どうやら二人とも今日はいるらしい。
ホールから客間に案内され、伯爵はソファーに腰を下ろす。私とイルはその傍に立っていた。
程なくしてホールにシャロン嬢とキースが客間に現れた。
「いらっしゃい、来てくれて嬉しいわ。」
「歓迎しますよ伯爵、セナ。」
突然の訪問にも関わらず二人の快い言葉に自然と笑みが浮かぶ。
横に居たイルは私の背に隠れてしまった。アルマン家以外の貴族に会うのはこれが初めてで緊張しているのかもしれない。イルは元々人見知りなところがあるから余計に不安なのだと思う。
イルの存在に気付いた二人が一瞬目を丸くしたのでわたしはそっとイルの背を押して前に出した。
促すためと、不安を和らげるためにイルの両肩に優しく手を添える。
伯爵が立ち上がりイルの頭に手を置いて「新しい小姓(ペイジ)だ」と言った。
「はじめましてっ、イルフェスといいます。よろしくお願いします!」
緊張で若干上擦っていたものの、元気な挨拶にシャロン嬢がニコリと微笑んだ。
「初めまして、イルフェス。私はグロリア=シャロン=リディングトンですわ。」
「俺はキース=エンバー=リディングストン。頑張れよ!」
伯爵の手が離れたイルの頭をキースが少々乱暴なくらいに撫でる。せっかく整えた茶色の髪が鳥の巣みたいになってしまったけれどイルは照れくさげに笑って返事をした。
乱れてしまった髪を手櫛で整えている間に執事が入室してテーブルにティーセットが置かれた。