そうこうして学院へ着いたが本当に中へ入るのだろうか?
関係者でもないのに立ち入ったら捕まってしまうのでは…いや、いざとなったら権力でも行使するとか?
どうするのかと聞こうとしたけれども伯爵は振り返ることなく平然とした顔で正面から、堂々と学院内へ足を踏み入れてしまった。手を引かれているため必然的にわたしもついて行くことになる。
院内は広く、思っていたよりも綺麗で建物自体もそんなに古さを感じさせない。
時折擦れ違う人々の何人かは白い白衣のようなものを着て科学の実験に使うのだろう器具を運んでいた。
昼間にしては人気が少ない気がする。たまたま今は人がいないだけとか?
それにしたって全く無関係の人間がこうも堂々と院内を闊歩出来るなんてちょっと問題だと思う。医学、とは言っているものの、この院内には化学研究のための施設もあるというのに。…途中で見た案内板にはそう書かれていた。
様々な薬品を扱う場所にこんな風に誰でも立ち入れるなんて危ない。
誰かが薬品を盗んで悪用したりしないのか。
「良いのかよ、勝手に入って。」
「良いんだよ。教授にどうしても聞きたいことがあったし、セナは院生である僕の知りなんだから。」
「ふーん。ってかアンタにも分からないことなんてあるんだ?」
警備の甘さに呆れつつ茶化すように問いかける。しかし「僕にだって分からないことの一つや二つくらいあるよ。神様ではないんだから。」とサラリと交わされてしまった。
そうしてある扉の前で立ち止まったかと思うと躊躇いなく、その扉をノックする。扉には第二研究室と書かれたプレートが貼り付けられていたが伯爵の知り合いでもいるのだろうか。
ややあって扉が内側から開いて少し白髪交じりの茶髪の男が顔を覗かせた。伯爵を見て朗らかな笑みを浮かべると快く室内へ招き入れてくれる。
扉を閉め、施錠をきっちりして、窓のカーテンまで引く。
男が伯爵のことを知っているのは明白だった。
ソファーを勧められて伯爵はゆったりと座ったがわたしは横に立って控えさせてもらう。男は少し驚いた顔をして口を開く。
「お久しぶりです、伯爵。」
「突然の訪問、すまない。」
「いいえ、少し驚きましたがお会いできて嬉しいですよ。それにしても、こんな若い近侍を雇うなんて珍しいですね。貴方は若い人とあまり関わりを持ちたがらなかったと記憶していましたが。」
出された紅茶を一口飲みながら伯爵は頷いた。
既に顔は何時もの仏頂面に戻っており、声も甘さが消えて普段の低く落ち着いた静けさが戻っている。
「そうだが、まぁ、ちょっとした拾いものだ。」
「人を物のように言わないでくださいと言っているでしょう。……失礼致しました。初めてお目にかかります、瀬那と申します。」
「これはご丁寧に。私のことは教授とでも呼んでくれると嬉しいな。」
ちょっと私の名前は長くて面倒だからね。そう言われたので頷き返す。
突然だったにも関わらず教授は警戒することもなく伯爵とわたしをニコニコと見た。
話を聞いてみると教授は伯爵が学院に通っていた頃の師だったらしい。通っていたと言ってもほんの半年程で、伯爵はある程度の医学をかじってから、また別の学院に移ったとか。
博識な人だとは常々思っていたけれど昔からの努力の賜物だったのだ。
二人は学生の頃の話をしたり、新しく分かった医学や化学の発見の話をしたりと随分楽しげである。そんな空気に水を差すこともしたくなかったので、わたしは二人の話を笑顔で聞いていた。
が、正直つまらない。何せ学生の頃の話は伯爵がどれだけ秀才だったかということしかないし、新しい医学や化学の発見もわたしにとってはドラマや小説で既に知っている内容ばかりだ。
かと言って外に出る訳にもいかなくて二人の会話を右から左へ聞き流ししていたのだけれど。
二人にはそれがバレてしまっていたようで教授が苦笑しながら、実験器具などが置かれた机を指差した。
「若い人にはつまらないかもしれないね。触らないでくれるのなら、好きに見ていてくれて構わないよ。」
「教授、これの‘つまらない’は‘既に知っている’からだ。医学や錬金術関係はこれの好む分野だから気にしなくても良い。」
「おや、そうなのかい?」
酷く驚いたような、それでいて興味津々という表情で見つめられて曖昧な笑みで誤魔化す。そのまま机に並ぶ実験器具やお世辞にも分かりやすいとは言いがたい人体模型を見させてもらうために、伯爵から離れる。
伯爵と教授は会話を再開させながらもわたしのことが気になるのか、たまにこちらへ視線を向けてきた。
そんなに心配しなくても何も触りませんって。
溜め息交じりに顔を戻すと目の前に丁度何かの実験器具と薬品が置かれていた。その中でも分けるように置いてあったのが試験管数本と管の繋がった栓、HClと書かれたラベルが巻かれている瓶に鉄の塊のようなものだ。
…HClって確か塩酸じゃなかったっけ?
近寄って瓶と鉄の塊らしきものをよく見ようとしたら足元にあった水槽が靴の先に触れる。
水がたっぷり入っていて随分重そうだ。
試験管に管の繋がった栓、水の入った水槽……なんだっけ…?
「あ、水上置換法か。」
「ん?何か気になるものでもあったかな?」
思い出して思わず口に出してしまっていたようで教授が振り返る。
丁度良かったので鉄の塊みたいなものを指で示しつつ、これは何かと聞くと亜鉛だと言われた。塩酸と亜鉛を混ぜて水上置換法で集める気体ということは、もしかしなくても水素だろうか?
でも水素を発生させても現代と違ってそれをずっと貯めておくことは出来ないはず。
何かの実験を行っている途中だった。もしくは水素を使った何らかの実験を行った後、か。
「何を考えてる?」
「っ!?…お、驚かせないでください!」
真後ろの、それもかなり近い位置から聞こえてきた声に自然と体が跳ねた。
慌てて振り返ると何時の間にか伯爵がわたしの後ろに佇んでいた。考えに集中し過ぎて気付いていなかったみたいだ。
伯爵も実験器具を見て教授に「水素を発生させてたのか?」と問う。今思ったが恩師に上から目線で物言うとか問題じゃないのか?それとも地位的には伯爵の方が上だからとか?
思考が別の方向へ飛びかけた時、教授が深く頷いてからソファーから立ち上がった。