孤児院に潜入してから一週間近く経過したのに、相変らず院内は平和の一言に尽きる。
町に出てみたりもして色々と情報を集めてみてはいるけれど最近は子供が行方不明になったという話を聞かない。
まさか犯人はどこか遠くへ逃げてしまったとか?ここまでしているのにそれは勘弁して欲しい。
今日は街の市場をシスターと一緒に買い物のために訪れていた。
「セナ、何か欲しいものはあったかしら?」
柔らかな微笑を浮べて問いかけてくるシスターに首を振る。
「別にないけど。」
「そう?そんなに高い物は買えないけれど、必要な物なんかは気にせず言ってね。」
そもそも沢山いる孤児の生活費だけだって馬鹿にならない金額だろうに。
今わたしが物を買っても結局は伯爵の下へ戻るのだし、本当に必要最低限あれば十分なのだ。
軒を連ねる露店を冷やかしながら歩いていたけれどやはり欲しい物は特になくて、シスターは何故か少し残念そうな表情をしていた。
子供はもっと甘えるものよ?なんて言われてとりあえず返事をしたが、実年齢を間違えられているのは何時ものことながら少し切ない。
シスターの後をついて市場を回っていると不意に見知った顔が視界の端に飛び込んでくる。
一瞬見間違いかとも思ったが自然な動作で確認してみればやはり思った通りの人物が離れた場所で買い物を済ませていた。
仕方なくシスターに声をかけて離れる旨を伝える。
「シスター、ちょっとオレ行ってくる。」
大した物も買っていないので荷物に困ることもないだろう。
突然のわたしの言葉に綺麗なブルーの瞳を丸くしてシスターは振り向いた。
「え?行くってどこへ?」
「友達。ちゃんと孤児院に戻るから。」
「あ!お待ちなさい、セナ!!」
持っていた軽い紙袋を押し付け、後ろから聞こえて来る制止の声を振り切って人通りの多い市場の中を走る。大勢の人のせいで恐らく追いかけては来れないはずだ。
振り返ってみるが、案の定シスターの姿は影も形もない。
人と人との隙間を縫うように走るわたしを数人の人々は振り返るものの、すぐに興味をなくした様子で露店の店主と話をしたり買い物をしたりと無関心だ。
立ち止まってやや乱れた息を整えていると足元にコロリと何かが転がってくる。
赤々とした艶のあるそのリンゴを拾い上げて転がってきた方向へ顔を向けてみれば、男性が一人。ゆっくりとした歩調で歩み寄ってきてわたしの傍らに立つ。
その男性を見上げてわたしはワザと呆れた色を強めた口調で声を低くして問いかけた。
「こんな所で、そんな格好をして、一体何がしたいんですか――――…伯爵。」
着古されたワイシャツに鳶色のベスト、ズボン、ちょっと擦り切れて妙に良い味を出したコートを着た伯爵がリンゴが沢山詰まった紙袋を片手に抱えて立っていた。
少々目立つ銀灰色の髪はベストと同色のキャスケット帽子の中に隠されてしまっている。どこからどう見ても一般人にしか見えないが、それでも印象的なブルーグレーの涼やかな瞳と無駄に整ったその顔立ちは人目を引いた。
手の内にあるリンゴを持て余すように二、三回上へと投げるわたしにバツが悪そうな表情を向けてから視線が逸らされる。
「……今回は、お前の意見も聞かずに決めてしまったのが少し気になっただけだ。」
「悪いと思ったのなら、素直にすまなかったと仰(おっしゃ)ったらいかがですか。」
遠回しな言葉に思わず突っ込んでしまえば長い間を開けて「……すまなかった。」ボソリとそう呟く伯爵に溜め息が零れ落ちた。
まさか自ら様子見に来るとは思っていなかったので流石のわたしもさっきは驚いた。
何せこの格好で伯爵が露店でリンゴを大量に買い込んでいたのだから、驚かない方が無理というもので、ついでに何故こんなにリンゴばかりを買っているんだという疑問を頭の片隅に追いやりつつ口を開く。
「構いませんよ。どちらにせよ孤児院の様子も知っておきたいと思っておりましたので、ある意味好都合ではありました。…けれど、次からはわたしの意見も聞いてくだされば嬉しいです。」
他人のフリというのもそう楽ではない。このところずっと敬語口調だったせいで、危うく敬語口調で話しそうになったことも何度かあった。
男性口調もなかなかに話しやすいものではあるけれど敬語の方がしっくりくると思ってしまうくらいには、わたしは既にこの世界に馴染んでしまっているのだから。
…そのうち完璧に敬語口調が板について元の口調が消えてしまいそうだ。
「分かっている。今回だけだ。」
「なら良いのですが。……とりあえず今は、孤児院でも特にこれといって問題は起きていません。」
「そう言えば行方不明者も出なくなったな。」
「もしかして犯人はもうこの街にいないのでしょうか?」
「…それは困る。シャロンの説教は長くて疲れるから出来れば避けたい。」
何かを思い出した様子で口の端を微かに引きつらせた伯爵に内心で合掌し、話を戻す。
どちらにせよ犯人の動きも分からなければコチラからは手の出しようがないので、急がず焦らず待つしかない。果報は寝て待てと言うし。
「引き続き孤児院で様子を見ます。――…ところで伯爵、」
「何だ。」
「その大量のリンゴの行方がとても気になるのですが、どうするおつもりですか?」
「……あぁ。」
手に持った紙袋から溢れんばかりに自身の存在を主張しているリンゴを指差すと、忘れていたと言った様子で曖昧な返事が返される。
まさか何も考えずに買っていたのだろうか?
ジトリとした視線を伯爵に向けると憮然とした顔で「きちんと消費すれば構わんだろう。」と言う。
しかしながらこれは食べ切るのに数日かかるだろう。むしろリンゴの方が先に駄目になってしまわないか心配だ。
近くに露店の店主に頼んで紙袋を一枚もらって来て、大量の赤い山から一つずつ取っては丁寧に詰めていく。伯爵がどうするつもりだと聞いてきたのでわたしは「孤児院の子供達と食べます。」と答えてやる。
あれだけいればこのリンゴもすぐになくなるだろうし。
半分ほどを移し変えて紙袋の口をクルクルと丸めて閉じる。
「そちらはリンゴパイなど食後のデザートやティータイムの茶受けにしていただいたら、きっとすぐに無くなりますよ。」
「…私一人で全部食べろと?」
元々甘いモノをあんまり口にしない伯爵がこれだけのリンゴを消費するのは大変だろう。
主人が買ったものを使用人は許可されない限り口にしないので、恐らく食べるのは伯爵だけ。買った本人なのだから食べるのは当たり前だ。
嫌そうな顔をした伯爵に追い討ちをかけてみる。
「半分はこちらで消費するのですから何とかなるでしょう。それとも本当に御一人で全部召し上がられますか?」
「要らん。」
「ではコックに頼むと宜しいかと。あ、自ら消費すると仰ったのですから、くれぐれも捨てたりなさらないでくださいね。伯爵。」
「…分かっている。」
リンゴの詰まった紙袋を片手に去って行く伯爵の後ろ姿が、どこか気落ちしているように見えて思わず噴出してしまったのは秘密である。