寒さはあるものの、スッキリとした目覚めを迎えながらわたしはベッドから起き上がった。
今日の仕事は夜だけ。そう思うと体も軽くなったような気分がする。
廊下に顔を出せば昨夜の内に伯爵が言ったのか、普段着ているきちんとした服が数着カゴの中に入れて置いてあった。
それを部屋に引き込んでチェストに仕舞いながら一セットだけ出して、それを着る。やはりコチラの方がしっくり来る。
顔を洗い、髪を整えて何時も通り緩く縛って服装チェック。
問題がないことを確認し終えて部屋を出た。
冷たい空気に触れて頭が冴える。廊下に足音を響かせつつ伯爵の部屋の前で一度止まり、声をかけて入室した。
ベッドの上の塊が穏やかに上下しているのを見ると起こすのが忍びない。
しかし主人の起床を促すのが役目となってしまっている以上は心を鬼にして起こさなければ。などと心にも無いことを考えながら伯爵の体を揺する。
「お早うございます、伯爵。ご起床ください。」
「…………。」
「…伯爵?」
常ならばすぐに起きるはずの伯爵が今日はピクリともしない。
毛布の隙間から覗き込んでみると、かなり深く眠ってしまっているようだった。
珍しい。何度も起こしに来ているが一度で起きなかったのは初めてだ。
何度か声をかけたり肩を揺すったりしていれば小さな唸り声が聞こえて来て、不機嫌なブルーグレーの瞳が毛布から顔を出す。
「…もう少し眠らせろ。」
微睡(まどろ)みの中にいるのか低い声に何時もの張りはなく、聞き逃してしまいそうな程に小さい。
返事をする前に既に眠りに落ちてしまった伯爵を見下ろしてみる。
……起きる様子はなさそうだ。
仕方なく毛布をしっかり首元まで引き上げてやってから伯爵の部屋を出る。
食堂に行ってコックに伯爵の食事が遅くなる旨を告げ、先にわたしだけ食事を済ませてしまう。
後で文句を言われようが起きない方が悪いのだ。
食後の紅茶も飲み終えてしまえばやる事のなくなったわたしはぼんやりするしかない。自室から冊子と羽ペン、インクを持ち出して居間で勉強することにした。
何故自室でやらないかと言うと、居間の方が執事や侍女が通りかかりやすいので分からない言葉を聞けるのだ。
実は使用人たちの中で、わたしは別の大陸から来た者で両親もなく身寄りもなく死にかけていたところを伯爵に拾われた――という設定が出来上がってしまっているらしい。
それも何とはなしに出生を聞かれた際に初めて知った設定なのだが。
だから言葉が分からなくても当たり前だと思っているようで聞くと皆優しく教えてくれる。
伯爵のお手本のように綺麗な字を見ながら羽ペンに苦戦しつつ書いている内に、何時しかわたしの周りには侍女やら執事やら使用人たちがわんさか集まってしまっていた。
かなり大所帯な状況で勉強をしていれば居間の扉がゆっくりと開く。
「――…何をしているんだ…?」
着替えを済ませた伯爵が寝惚け眼で扉を開けた格好のまま佇んでいた。
全員が一斉に振り返ったからか、一瞬ブルーグレーの瞳が瞠目する。
それから勉強をしているわたしを見て何か納得した表情をし、主人を見て己の仕事を思い出した使用人たちも各々の仕事に戻っていく。
妙にそれが可笑しくて小さく笑っていると執事に軽食を運んでくるよう頼んだ伯爵が前のソファーに体を投げ出した。
伯爵らしくない乱暴な振る舞いに小首を傾げてしまう。
「どうかしたんですか?」
聞けば恨みがましい視線を向けられるが、身に覚えがなくて目を瞬かせてしまった。
伯爵は小さく息を吐き出して「ただの寝不足だ。」と言い、執事が持って来たサンドウィッチを食べ始める。眠たげな瞳は怠そうに窓へ向けられた。
それ以上は答えてくれなさそうだと諦めて勉強に戻る。漂白のされていない羊皮紙の冊子に羽ペンで文字を何度も書いていく。たまに引っかかったところは不恰好にインクが濃く残っていた。
どうにも筆記体の文字は苦手だ。
繋がっているとミミズがのたくっているようにしか見えない。
一字一字が離れているとそうでもないが、繋がってしまっていると文字が判別し難い。
紙面と向かい合って延々と文字を書き綴っていると何時の間にか視線を戻していた伯爵が冊子を覗いている。
その目が文字を追っているのを見ると少しだけ緊張した。
「…間違ってます?」
「いや、間違いはない。」
「そうですか。……ん?間違い‘は’?」
やや引っかかる言い方に伯爵の顔を見ると、眠たげに欠伸を零しながら「書き方と文字のバランスがおかしい。」と指摘された。
そこまで細かく見なくたって…。
伯爵曰くわたしの字は丸いらしい。
元々書く字が丸みを帯びているので、それはまぁ仕方ないんじゃないかと思うが書き順なんて違っていたって良いじゃないか。
口を開きかけ、面倒臭そうに言おうとした言葉を呑み込んだ伯爵もどうやらそう思ったようだ。
わたしから見るとよく書けている字も伯爵からすれば、子どもが書いたような字に見えるかもしれない。
だが初めて字を習った頃に比べればかなり上達しているだろう。
あの時の伯爵の困った顔は忘れられない。後から聞いた話だったが初めて書いたわたしの字は小さな子どもが書いた、かなり下手くそなものだったらしい。
お世辞にも上手いとは言えないが、下手だと言い切るのも憚られただとか。
「――…手が止まっているぞ。」
「え?…うわっ。」
羽ペンが止まっていた場所には大きな黒い点が広がっていた。
慌ててペン先を紙面から離したものの、遅く、インクが染み込んだ部分の字に斜線を引いて書き直す。
黒く滲んだ丸いシミを眺めつつ右側にチョロっと尻尾を悪戯書きしてみる。
伯爵が器用に片眉を上げて問いかけてくる。
「何だそれは。」
「おたまじゃくしです。」
「…?」
「カエルがカエルになる前、卵から生まれたばかりの子どもです。」
伯爵が随分変な顔をした。今、すごく自分でもくだらないなと思った。
…何だって朝からオタマジャクシの話なんてしてるんだか。
軽く頭を振って文字の練習に励む事にした。