居間に戻ると伯爵は一人で紅茶を楽しみながら何やら考えている様子だった。
それを邪魔せぬよう正面のソファーに腰掛け、自分で紅茶をポットからカップに注ぐ。
柔らかな湯気と良い香りがふわりと漂う。角砂糖を一つ落としてゆっくりと溶かし、一口含めば程好い甘さにホッと肩の力が抜けた。
囮というのは別に構わないのだけれど妙に気が張ってしまう。
男口調というのも気を付けなければ、すぐに言葉使いが崩れてしまいそうになる。近侍として敬語を使っている方がまだ幾分マシだ。
チラリと伯爵に視線を向けてみてもやはり思案に耽っているようで口元に手を添えたまま微動だにしない。
その癖とも言うべき格好はよく似合っているけれど、似合い過ぎて何だか癪に障った。
ソーサーをテーブルに置いて立ち上がり伯爵の傍に佇む。それでも伯爵は気付かない。
スルリと首に腕を回し、肩に顔を寄せて抱き付く。
「なぁ、お兄さん。オレのこと忘れんなよ。」
綺麗な銀灰色の髪を掻き上げて耳にかけさせる。悪戯が成功したようで伯爵の意識が思考の海からやっと浮上した。
手袋がされたままの手が腕を解こうとするのでワザと力を込めてやる。
「――…離せ、セナ。」
諭すような、咎めるような声音で名前を呼ばれたけれど聞こえないフリ。
服越しにじんわりと広がる温かさを楽しんでいれば、諦めたように伯爵の手が腕から離れていった。少し力のこもっていた体も僅かに弛緩したように感じる。
「…囮にした事への当て付けか?」
「そんなことしないって。」
溜め息交じりに呟かれた言葉を否定しつつ、意外にもガッシリと幅のある肩に頭をすり寄せる。
こんな風に誰かと触れ合うのは久しぶりだ。意趣返しのつもりだったが、ほんの少しだけ胸の内に寂しい気持ちが芽生えてしまった。
両親はどうしているだろうか?たった一人の妹は元気だろうか?
突然居なくなってしまった自分をどう思っているのか。わたしは何とか暮らしているから大丈夫だと伝えられないのが歯痒い。
泣き喚くほど子どもでもない。だからと言って在りのままを全て受け入れて過去を忘れてしまえる程の大人でもない。
涙は出なくても吐き出した息が微かに震えているのが自分でも分かった。
……やっぱり、まだまだわたしは子どもなんだな…。
「甘えたって良いじゃん。…まだ子どもなんだから。」
「この世界の十七は大人だがな。」
「わたしの世界は二十歳が成人で大人なんで。」
「……仕様の無い奴だ。」
言葉と共に伯爵の肩が動いて頭の上に何かが乗った。ゆっくりと撫でてくるそれが手で、子どもにするような頭の撫で方だったが悪い気はしない。
相変らず伯爵は「女性が男に抱き付くものではない。」だとか「もう少し自覚を持て。」だとか、ブツブツとぼやいていたけれど、振り解かないところは優しいと思う。
うだうだと意味もなく伯爵に甘えさせてもらい、落ちかけていた気分が戻った頃にわたしは回していた腕を離した。
伯爵の顔を覗き込むと相変らず無表情と言うか真顔に近い様子だった。よくよく見てみると目元がほんの微かに赤く染まっている。
…もしかして照れてる?
思わずニヤけてしまっていたようで伯爵が不愉快そうに眉を顰めた。
「もう十分なら、さっさと自室に戻れ。…明日の夜もまた出る事になる。」
「分かっています。ではお休みなさい。」
「……良い夢を。」
つっけんどんな態度なのに、きちんと返事を返す伯爵は律儀だ。
扉を開けつつ振り返って「またお願いしますね。」と言ってみれば「勘弁してくれ。」と額に手を当てながら、伯爵は手を振って早く行けと促してくる。
それに従って居間を出ると自室へ戻った。
冷たい空気に一度体が震えたけれど無視してチェストから適当な服を掴んで浴室に向かう。
先にシャワーを出してお湯にしつつ、服を脱いで入れば温かな湯気の出るお湯が冷えた手足を温めてくれる。外に長時間いると手足の先が冷えてしまって、それがなかなか温まらないのだ。
やがて室内が湯気で見えなくなるくらいになってから髪や体を洗い、十分温まってからタオルを巻いて出る。
肌を撫でる冷たい空気に体温を奪われないよう手早く体を拭いて服を着込む。
濡れた髪もしっかり乾かして一度櫛を通し、やっとベッドへ潜り込んだ。
冷たいシーツの中で丸くなって目を閉じれば心地良い眠りが全身を包み込み、細く息を吐き出した。
居間を出て行った瀬名の足音が聞こえなくなってから、クロードは己の額から手を離した。
その下に隠れていた端整な顔は微かに赤く染まっている。
完全に冷え切ってしまった紅茶を流し込むように飲んで気を落ち着かせようとしてみても、服の肩辺りに残る石鹸のほのかな甘い香りが鼻先を掠ると顔に熱が集まるのが分かった。
己よりも五つも年下の少女に良いように振り回されて男としてのプライドが若干折られたような気がする。しかも微妙に煽られていたような。
「……一体何がしたいんだ、お前は。」
主人と使用人、仕事上では上司と部下、恩人と助けられた者。
そんな関係で繋がってはいるが元を正せば一人の男と女なのだ。
もう少し自身が女性である自覚や意識を持ってもらいたい。少々気が強くて飄々としているのに、ふとした時に弱くなる姿を目にしてしまえば放っておく事など出来る訳がない。
そこに恋愛感情があっても無くても、気の許した女性の弱った姿というものに何時の時代でも男は弱い。
触れた体の女性特有の丸みを帯びた柔らかな感触が未だ残っているのが恨めしい。
本人は悪びれた様子もなく、恐らく悪戯か何かのつもりだったのだろうが…やられた方は堪ったものではない。
久しく忘れていた熱を自覚しつつ、気怠げにソファーから立ち上がったクロードは上着を羽織り直すと居間を出る。
そこから自室へ戻ることはせずに帰って来たばかりの馬車に乗り込んで夜の街へと消えて行った。