肌を撫でる冷たい空気に意識が浮上する。
ぼんやりとした頭でいつの間に寝てしまったんだろうと考えた途端、ズキリと左の額上から鋭い痛みを感じて一気に覚醒した。
薄暗い室内の空気は冷たく、窓が一つもない壁には蝋燭が数本仄かに部屋を照らしている。
起き上がろうとすると首に圧迫感を覚え、手足もまともに動かせない。
せめて少しでも状況を確認しようと首を横へ向ければ縛られている手首が目に入った。
それこそ自力で引き千切るのは不可能なほど太い縄がしっかり巻かれている。
何とか少しだけ首を持ち上げて自分の体を見れば着ていたはずのコートはなく、ベストも消え失せて、薄いワイシャツとズボンという何とも心許ない格好をしていた。
オマケにワイシャツの前はボタンが留められていない。
あの男に自分の性別がバレてしまったのだと気付き、思わず悪態を吐いてしまう。
「くそっ!」
「――…女性がそんな言葉を使うのは、良くないですよ。」
「!」
声のする方へ顔を向ければ、部屋にある唯一の出入り口だろう所に寄りかかった男がゆっくりと近付いて来る。
そこで、男の腰ほどの高さの台の上に寝かされているのだと気付く。
よくよく見てみれば台の隅には拭い切れずに黒く変色してしまった何かの液体が掠れているものの、残っている。
娼婦たちは発見現場ではなく、ここで殺されたのだ。
ジッと台の汚れを見ていたからか男はそれに気付くと「あぁ、残ってたか。」と何でもない風に言って適当な布で荒っぽく拭い取った。
片手に大きな包丁のようなものを持ったままわたしを見下ろしてくる。
「やっぱりあなたが犯人だったんですね。」
わたしの言葉に男はそこでやっと笑みを浮べた。
初めて会ったときに見た少し悲しげな笑みでも、張り付けた穏やかな笑みでもなく、酷く暗くて不愉快な笑みだ。
「貴女が女性だったとは気付かなかった。」
「仕事柄、女性では何かと不便ですので。」
「そうだろう。君が女性で良かった。男を切り刻む趣味はないからね。」
男は手の内にある包丁をクルクルと弄ぶ。
わたしはずっと気になっていたことを口にした。
「なぜ、彼女たちを殺したんです?」
その動機だけは分からなかった。彼女たちはこの男の逆鱗に触れるようなことを口走ってしまったのか、それともこの男と彼女たちは何らかの関係が元々あったのか。
男はどこか懐かしむように視線を天井に向けて「あぁ、」と溜め息にも近い声を漏らす。
「彼女達は美しかった。客の前では艶やかに笑い、裏でひっそりと泣く。咲いては散る花のような彼女たちも、やがてはどこかの男に身請けされるか、時を経て老いてしまう。あの美しさを他の男一人だけの物になんてしたくはなかった。…年老いた姿も見たくない。」
「そんな理由で?」
「…そんな?」
男の手が伸ばされたかと思うと、喉に更に圧迫感がかかる。
首を絞められているのだと理解していたが手足を拘束されて抗うこともできない。
見下ろしてくる男の瞳は瞳孔が開いて、わたしを見ているようで見ていなかった。
「そんなだと?彼女達の美しさを理解していない貴女には分からない。老いないように、他の男の物になってしまわないように、美しいままに終わらせてやったこの意味がどれ程素晴らしいのか分かっていないんだ。」
「か、はっ…!」
「…貴女も彼女達ほど美しくはないけれど、他に比べればとても綺麗だ。」
「っ、げほっ!ごほっ、ぅ…はぁっ!」
男が手を離し、一気に肺に空気が入ってくる。
薄れかけた意識が戻ってきて、苦しさに言葉を発せられないものの、男を視線で追う。
台から離れた男は壁の一角に置かれた箱を愛おしそうに指先で撫でた。
薄暗い室内で何とか目を凝らすと硝子の箱の中身が何なのか見える。
「それは…!」
指だった。恐らく左手の薬指だろう。
今回の事件で死んだのは六人。だが、箱の中でまるで芸術品か何かのように飾られた指の数はどう見てもその倍以上ある。
まさか今回の事件で発見された遺体は男が殺した女性たちのほんの一握りに過ぎないのではないかと背中を冷たいものが滑り落ちていく。
箱に縋り付くように寄り添う男は指を熱心に見つめままま口を開く。
「そう、彼女達の指だ。せめて記念にとね。この細く綺麗な指に綺麗な指輪をつけてやったんだ。素敵だろう?」
「…今回の事件の被害者の数よりも多いですね、」
「あぁ、別の街でも何人か終わらせてあげたから。」
何人か、などとぼかして言っているがどう見たって数人という規模ではない。
少なくても数十人の命を奪い、その遺体から指を奪ったのだろう。
だが遺体からはもう一つなくなっているモノがある。――…子宮だ。
指はそうだとしても子宮まで取る必要などないのでは?
「…子宮は、どうしたんです?」
「貴女は女性が醜くなる原因が一つに子を生むことだと知らないんだね。子を生むと女性の体は老けてしまう。なら子など出来ないようにしてしまえば良い話だ。」
死んでしまえばどっちみち妊娠などしないのに。
そう思っていたのが顔に出ていたのか男が嘲笑う。
「初めて終わらせた女性も娼婦だったよ。青い瞳が綺麗な人で、妊娠してから段々と腹が膨らみ、彼女の美しさが損なわれていった。赤ん坊なんて美しい彼女達には必要のない物だ。」
だから終わらせてあげた後に、腹を割いて赤ん坊を引きずり出して殺した。
彼女の美を損ねたのだから死んで償わせなければいけない。
男はまるでそれが当然のことのような口振りで話す内容に吐き気がした。
新しい命を生み出すことが出来る。それは女性にしか出来ないことで、その生命の神秘こそが美しいものなのだ。
それを罪だと声高に叫ぶ男の気が知れない。
「貴女は成長すればきっと彼女達のように美しくなれる。」
「さぁ、どうでしょうね。」
「保障するよ。…だけどそれを見れないのがとても残念だよ。貴女は賢明過ぎた。」
悲しげに、愉しげに言う男は狂っているとしか言い様がない。
蝋燭の火を怪しく反射させて光る包丁を手に、緩慢な動作で歩み寄ってくる。
刺されるのか。それとも生きたまま腹部を裂かれるのか。
どちらにせよこれから起こることは愉快ではないだろう。
こんなときに限ってどうして伯爵は来ないんだ!
普段は危ないことはするな、何かあったら逃げろ、だの色々と言ってるクセに!!
思わず当てつけのような文句を考えつつ、迫る包丁にわたしは伯爵の名前を呼んだ。
「さっさと助けろ、馬鹿クロードっ!!!」