翌朝、まだ日も昇り切らないうちにパチリと目が覚める。
室内には昨夜伯爵がくれた香の爽やかな匂いが漂っていて、すっきりとした気持ちで起きることが出来た。
扉の鍵を開けて廊下へ顔を出せば扉の足元にはカゴに入った服がきちんと畳んで置いてある。肌寒い空気に少し震えつつそれを部屋に引っ張り込む。
洋服ダンスに仕舞いこみ、別のチェストから服とズボンを取り出した。
昨日よりも寒いので流石にズボンは長いものにしよう。
ワイシャツの上にベストを重ね、防寒用に更にもう一枚上着を羽織る。それでも気持ち物足りないような気もしたけれど、これ以上着込んでは見た目的にあまり綺麗ではなくなってしまうため諦めた。
顔を洗って、寝癖を直し、ロングブーツを履く。もちろんズボンの裾はブーツインだ。
ベッドのサイドテーブルに置いておいた香はまだ半分も減っていなかったので、蓋をして、箱に戻すとチェストの上へ移動させた。
…また今度眠れないときに使わせてもらおう。
懐中時計で時刻を確認すると何時もよりほんの少し早いくらいだった。
ゆっくり歩いて伯爵の部屋へ向かえば丁度良い。
時計を仕舞い、鏡で服装を確認してから自室を出る。建物内とは言え冬直前の今は吐く息も仄かに白い。
…伯爵を起す前に暖炉に火を入れておかないと。
そう思い付いて少し迂回するように倉庫へ寄って炭と木と灰掻きを拝借する。
伯爵の部屋の扉をそっと開ければ案の定ベッドの上には毛布の塊が静かに上下していた。
暖炉へ近寄って燃え尽きてしまっている炭の欠片と灰を外へ掻き出し、新しい炭と木を足して暖炉の上に置かれていたマッチで火を点ける。
木から炭へ火が燃え移ったのを確認してから掻き出した灰を出しに一旦伯爵の部屋を出て、外へ向かう。
一階まで下りると他の部屋の灰掻きをしていた使用人と偶然会った。
「あ、おはようございます。」
「おはようございます。あれ、その灰…」
わたしの持っていた灰の入った袋に小首を傾げる使用人。
「伯爵の部屋のものです。今朝は少し冷えるので暖炉に火をくべてから起そうと思いまして。」
「そうですか、いや、すみません。旦那様は部屋に入られるのを嫌がられるので、灰掻きも出来なくてどうしようかと思っていたんです。」
やはり仕事柄人に見られては困る物もあるため、伯爵は基本的に自室に人を入れない。
メイドですら入れないのだからこういう時には確かに困ってしまうだろう。
「気にしないでください。わたしがやっておきますから。」
「お願いします。あ、灰は私が片付けて置きますよ。」
お言葉に甘えて灰を渡し、軽く服を払ってから戻る。
伯爵が眠ったままだったけれど暖炉に火を入れたからか部屋は外よりも少し暖かくなっていた。
これなら起しても寒くないだろう。ベッドに寄り、そっと肩があるだろう辺りに手を置く。
「…伯爵、朝ですよ。起床のお時間です。」
軽く揺すると毛布が動き、眠たげな瞳の伯爵が顔を出した。
まだ眠たいのか少し眉を寄せてぼんやりとした瞳がわたしを見つめる。
「…あぁ、お早う。」
「おはようございます。」
挨拶をしたという事はもう頭は冴えているはずだ。ベッドから一歩離れれば伯爵が億劫そうに起き上がった。
そうして煌々と火を湛えている暖炉を見て何度か目を瞬かせ、わたしを見る。
「今朝は少し冷えましたので勝手ながら火をくべさせていただきました。」
「…お前がやったのか?」
「えぇ。見よう見真似で、ですが。」
暖炉の火のくべ方を教えてもらったことはない。
何せ今までは夜くらいしか暖炉は使わなかったし、そもそも暖炉自体あまり好みではないので自分から進んで使うこともなかった。
ただ何度かやり方を見ていたのでそれを思い出しながらやっただけだ。
もし可笑しなところがあったとしても多少のことは目を瞑ってほしい。
何か変なところでもありましたか、と聞くと暖炉を一瞥した後、
「いや、教えられてもいないのに出来るとはと思ってな。お前は本当に良く出来た近侍だ。」
と、珍しく褒め言葉を口にした。
別にそれを望んでいた訳ではなかったのだけれど、少しだけ嬉しい気持ちになる。
着替え始めた伯爵から暖炉へ視線を外しながら暖かに燃える炎をのんびりと眺めた。
仕事がなければこんな風に穏やかな日々を過ごせるのだが、残念なことにまだ事件は解決していない。今日もこの寒い中、街中の花屋巡りをしなければならないと思うと嫌になる。
そもそも首都でもあるこの街の花屋だなんて、一体何軒あると思う?
今日中に全てを回ることなど不可能じゃないか。
一日十軒回れたとして何日かかるんだか…。
思わず溜め息を零してしまったら丁度見ていたらしい伯爵が首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「いえ、街中の花屋は一体何軒あるのかと思いまして。」
「…あぁ。今日中には全ては回り切れんだろうな。」
「でしょうね。」
溜め息の理由を瞬時に理解したらしい伯爵が納得した様子で頷く。
別に今日中でなくても良いんだぞと言うけれど、早いに越した事はないし、一日でも早く事件を解決しなければ何時また被害者が出るとも限らない。
現代と違い科学技術があまり発達していないこの世界では、わたしは時々歯痒く思う。
元の世界であればと何度も考えずにはいられない。
‘今この時、自分に出来る事をやり遂げろ’
最初の頃はなかなか進展しない事件捜査に癇癪を起しては、伯爵にそう諌められた。
自分の出来る範囲で必要だと思う事をする。言葉にするのは簡単だけれど実行するのはとても難しい。
特にわたしの場合は心ばかり急いてしまって周囲が見えなくなってしまう時があるから、十分落ち着いて行動しろと伯爵は何時も言っていた。
今思うと出会ってからそれほど時間が経っていないにも関わらず伯爵は‘わたし’という個の特徴をよく理解していた。
そうして的確な言葉と指示をくれていたのだから、彼は本来人の上に立つ事にも優れた人物なのだろう。
「食堂に行くぞ。」
かけられた声に視線を戻せば手袋をしながら伯爵もわたしへ振り返る。
「はい。」
そんな人物の助手になれた事はある意味凄いことなのだ。
事件に関わっているうちは嫌な事も多くあるけれど、伯爵と色々な事件に携わることで少しでもわたし自身成長出来たら良い。
先を歩く長身の背を追いかけながら、知らず知らずの内にわたしの顔には笑みが浮かんでいた。