暖炉に灯る穏やかな炎を眺めながら、クロードは自分の近侍である少女のことを考えていた。
背中まで届く艶のある黒髪に同色の瞳。白とも黒とも違うやや黄色味を帯びた肌は滑らかで、男とも女とも取れる顔立ちは不思議な神秘さを持つ。
あれ程見目麗しければ十分良い相手と結婚出来ただろう。それにとても博識だ。
けれど男としてズボンを履き、使用人の服に身を包んでいる少女の名はセナ。その生まれも育ちも、彼女の口から聞いた事は一度もない。
庶民臭さがあるかと思えばふとした所作や礼儀作法はそこいらの貴族よりもずっと様になっており、セナの育ちの良さが窺えた。
しかしセナを見つけたときは何一つ物を持っておらず、大雨の降る嵐の中で細い路地に縮こまる子どもだと思っていた。結局彼女の出生を知る手がかりもない。
あの時、彼女を見つけたのは偶然で、助けたのも気紛れに近かったと記憶している。
最初はロクに口を利かない少女に厄介者を拾ってしまったと思いもしたが、心を開いた今の彼女は素晴らしい知識と鋭い勘を駆使して良き相棒として、良き従者として傍にいる。…小生意気なところはこの際目を瞑っておこう。
実年齢よりもやや幼い顔立ちの彼女はその精悍な顔立ちと育ちの良さからか多くの者に好かれている。
真面目そうに見えてじゃじゃ馬だったり、完璧そうに見えて偶に抜けていたり、美しい外見とは裏腹に飾らない性格で誰に対しても臆する事無く物を言う。
そんなところがより人を惹き付けている事を本人は自覚していないようだ。勿論大半は彼女を‘男’と認識している上での好意なので友情なのだが、恐らく彼女もそうなのだろう。
実際彼女の知り合いのほとんどは友人だと言い、セナ自身も友人なのだと口にしている。
男だと偽っているからこそなのかもしれないが…そのくらいには彼女は魅力的な人間であるということだろう。
人が躊躇うことも自ら行い、しかしどんな時だって飄々とした姿は時折道化師のようにも見える。
ニコリと人の良さそうな笑顔と巧みな言葉で多くの人々の口から彼女は様々な情報を抜き取ってきた。その特技とも言える才能を口には出さないもののクロードは賞賛している。
あの疲れを見せようとしない気の強さもなかなか感心した。
が、何時もならば情報を集めて駆けて来るというのに今日に限っては酷く疲れた顔をしていたのだ。
何があったのか問い詰めれば白状したのかもしれない。けれど言いたくない事を無理に言わせるのも忍びない。
結局香を贈ることくらいしかクロードには思い付かなかった。
きっと遊び慣れている男であればこの様な時に何を贈れば女性は喜ぶか分かるだろうが、残念なことにクロードは女性と交際した事は皆無である。
アルマン家の仕事を考えれば致し方ないことであるのだけれど、全く人が寄り付かないというのも考え物だ。
…まぁ、身の潔白を声高に叫ぶ事の出来ない者たちからは敬遠されてるのは当たり前か。
胸の底に溜まっていた何とも言えない気持ちを、軽く息と共に吐いたところで部屋の戸がノックされた。
入室を促せば初老の執事が音を立てずに傍に寄った。
「おっしゃられた通り香をお渡しして参りました。」
とても驚いておりましたが、嬉しそうな様子でございましたよ。
好々爺のような笑みを浮かべてそう言った執事にクロードは口元を微かに引き上げた。
「そうか…あぁ、ご苦労。わざわざすまなかった。」
「いいえ。これしきの事、何の苦労でもございませんよ。」
生まれた時からクロードの成長を眺めてきた執事にとって本当に彼の頼みは苦労ではない。
執事はセナの本当の性別を知っている数少ない人間の一人で、クロードが初めて使用人ではない女性を屋敷に住まわせた時は内心両手を挙げて大いに喜んだ。
今は近侍となってはいるが執事にとっては微笑ましい限りである。
「…手間をかけさせた、もう下がってくれ。」
「はい、では…。」
執事が退室してからクロードは本と羊皮紙だらけの机から一冊の本を取り出した。
中身は真っ白なページばかりのそれは全体の三分の一ほどページが文字で埋まっている。中身はクロードが書き記してはいるけれど、内容はセナの知識ばかりだ。
彼女の知識の豊富さには何度も驚嘆させられた。
何より今現在でさえその知識の全てを披露している訳ではないのだと思い知らされる度に彼女を拾って良かったとも思う。
知識は人の心や思想を豊かにするが、時と場合によっては闇へ貶めてしまう諸刃の剣のようなもの。
彼女にとっては大したことのない知識でも他者に悪用される可能性もある。
だからこそ彼女を屋敷に置いて自身の傍で働かせているのだが。
クロードは毎日その日の終わりに彼女が述べていた知識の中で必要な、かつ自身にない知識の話を覚えている限り書き写すことが日課となっている。
建物からの飛び降りと突き落としの違い、事件現場での徹底した現場維持。
そうして彼女の嗅覚の良さには流石のクロードも舌を巻いた。
もともと鼻が利くのか、それともこんな仕事で鍛えられたのか。彼女ほど嗅覚が優れていれば良かったのにと思う。
キセルを吸っているのも原因かもしれないが貴族の嗜みなのだから止められない。
貴族という地位も全く面倒極まりない。金はあっても、それに見合うだけの技量や人柄を下の者に示さなければいけないのだから。
頭の片隅でそんなどうしようもない事をつらつらと考えながらもクロードの手は本の洋紙に羽ペンを滑らせた。
記憶の中から今日彼女が話していた内容を書き終える頃には夜も深まり、心地の良い睡魔が柔らかに身を包み込んでいく。
本を机の中に仕舞い、服を着替えてベッドへ寝転べば新しいシーツの滑らかな感触が頬を撫でた。
朝になれば彼女はクロードを起こしにやってくる。
そっと肩に触れて控えめに朝だと告げるのだろう。
それはクロードにとって何気ない一日の、しかし大切な始まりの一部と化している。
彼女のアルトの声は耳に心地ち良くてスッキリと目覚めることが出来る。必要以上干渉して来ない辺りも望ましい。
着替え中に出て行かないのは女として少々羞恥心が足りない気もするが、注意するだけ無駄だろう。
…明日は一体どんな知識を披露するのだろうか?
そんな心持ちでクロードは眠りに付くのが、彼女が屋敷に住み着くようになってからの彼の楽しみでもあった。