「明日は花屋を回るつもりか?」
食事を終えて一息吐いた頃、伯爵がそう聞いてくる。
顔を上げれば相変らずな仏頂面でわたしを見ていた。仕事熱心な彼のことだから今回の事件も出来うる限り早く解決したいのだと思う。
しっかり背筋を伸ばして伯爵に頷き返す。
「はい。」
「…分かってはいると思うが深追いはするな。」
「危険と判断しましたら逃げますよ。」
もしも犯人が花屋であるならば、その犯人の下へ行くことになるのだ。
深追いするなとは言われるが多少の危険は承知しているし、連続娼婦殺人犯が簡単に捕まってくれるとは思ってもいない。
そんなことを考えているとじっとりとした視線を感じて伯爵を見た。
綺麗なブルーグレーの瞳が胡乱げに眇められていて一瞬ギョッとしてしまう。
綺麗な顔立ちをしているだけに、時折見せる不機嫌そうな表情はかなり焦る。
「お前、絶対分かっていないだろう?」
「そんな事はありませんよ。」
「嘘を吐け。少々の危険がなければ犯人など捕まえられない、と考えていたな。今。」
「…よくお分かりになりましたね。」
読心術でも習得しているんですか、あなたは。
思わずそう続けてしまえば伯爵が深く溜め息を吐いた。それはもう苦労やら何やらを混ぜ込んだような疲れの感じられる溜め息である。
雰囲気的に‘全く、これだからお前は’と言いたげだ。
「良いか、お前は女だ。どれ程男の格好をしていようとも、男のフリをしていたとしても、女である事は変えられない。怠けろと言っているんじゃないんだ。怪我をするなと言っているんだ。嫁入り前の娘が大怪我なんて笑えないだろう。」
しまった!伯爵のお説教が始まってしまった!!
まさか今のでスイッチが入るとは思っていなかっただけに、不意打ちで逃げるタイミングを逃してしまった。
目の前で、真剣に、かつ真顔で怒っているのか心配しているのかよく分からない言葉を述べていく伯爵を見やる。いつもながら彼のお説教はまるでじゃじゃ馬娘に注意する父親のようだ。
本来女性はドレスやワンピース系のスカートを履いて、静々と歩いているのが当たり前で、わたしのようにズボンを履いて色々な事件に首どころか腰辺りまで突っ込んでいる状態は伯爵からすると心配で仕方ないらしい。
…仕事を手伝わせ始めたのは伯爵のクセに、だ。
どうにも危なっかしいと言われても、わたし自身にはあまり身に覚えがない。そもそもドレス着て「あら、御機嫌よう」なんてわたしのガラじゃないし、やりたくもない。
「はいはい、分かりました。危なくなったらすぐに逃げます、深追いもしません、怪我もしないよう気を付けます。」
まだお説教を続行しようとする伯爵に両手を上げて降参のポーズ。
彼はまだ言い足りない様子だったけれど、口を噤んで、「本当だろうな?」と念押ししてきた。それに何度か頷くと渋々ながらに言いかけていただろう言葉をワインと共に飲み込んでくれたようだった。
伯爵のお説教は嫌いではない。
言っていることは正論だし、こんな美形に心配してもらえているのだと思うと悪い気はしない。でも話が長過ぎるからそこだけはもう少し短くして欲しい。
流石に今日は疲れてしまったので申し訳ないが先に退室させてもらおう。
「伯爵、申し訳ありませんが今日はもう休ませていただいてもよろしいでしょうか?」
食後のワインを楽しんでいた伯爵が軽く頷いた。
「構わん。明日もある、ゆっくり休め。」
「はい、では失礼致します。」
一度深くお辞儀をしてから食堂を出る。
誰も見ていないのを良いことに歩きながら思い切り伸びをした。首を左右へ傾ければパキリと小気味よい音が響く。
仕事疲れというのは嫌ではないけれど、これが明日に響くとなると面倒だ。
さっさと汗を流して眠ってしまおう。
自室へ行き、適当にベッドの横に靴を脱ぎ捨てて、ポケットから懐中時計や手帳などを取り出して浴室へ向かう。
浴室とは言え簡易なシャワールームだがないより全然良い。簡易とは言え現代のビジネスホテルにあるバスルームとたいして変わらない造りで、結構綺麗だ。
着ていた服を全部脱いで傍にあったカゴへ放り込む。これは後で来るメイドに頼んでおけば洗濯してくれるのだから貴族の家とは素晴らしい。
コックを捻れば少し温い湯が壁に取り付けられたシャワー部分から降って来る。
昼間は湯船に浸かったけれど今回はシャワーで十分だろう。
早く寝てしまいたくて大雑把に髪と体を洗い、温かな湯で体を温めてから出る。
寝間着のワイシャツと膝丈のズボン姿でベッドに座り込んでガシガシと濡れた髪を拭う。ドライヤーなんてものがないから乾かすだけでも手間がかかる。
伯爵はいつもあまり髪を乾かさずに寝ているらしい。
それなのにあのサラサラな髪は寝癖一つ付かないのだから羨ましい。
わたしがそんなことをすれば変にウェーブやカールがついてしまってどうしようもないというのに。
必死になって髪を乾かしていれば不意に部屋の扉がノックされる。
ベッドのサイドテーブルに置いた懐中時計で確認したがさほど遅い時間帯ではない。
頭にタオルを乗せたまま扉を開ける。
「はい、何かご用でしょうか?」
廊下にはやや歳のいった執事が立っていた。
穏やかな好々爺の執事は微笑を浮べてわたしを見下ろす。
「お疲れのところ申し訳ありません。旦那様より此方を貴方へお渡しするよう言い付かって参りました。」
「?」
手渡されたのは二十センチ四方くらいの木箱。表面には丁寧な彫刻で花が刻み込まれている。
やや重さのあるそれを思わず受け取ってしまったが一体中身はなんだろうか。
執事はニッコリ笑って「お休みなさいませ。」と去っていく。
その背に御礼と挨拶を投げかけたが執事に届いたかは分からない。
扉を閉めて、箱をサイドテーブルに置く。そっと上蓋を持ち上げて中身を覗き込んでみる。
「…あ。」
それは香…いわゆるアロマキャンドルと呼ばれるものだった。
淡い黄緑の花の形をしたキャンドルからは爽やかでほんのり甘い香りが漂ってくる。
旦那様、というのは伯爵のことだ。わたし以外の使用人は伯爵のことをそう呼ぶのだが、その伯爵がこれを寄越したということは使えということだろうか。
…もしかして疲れた、って言ったから?
使うのが勿体無くなるような綺麗なキャンドルを暫し眺めてから、そっとマッチで火をつける。
薄い煙とともに香りがゆっくりと部屋に広がっていく。伯爵の好みもなかなか良い。
心地良い香りに包まれながら真っ白なシーツへ倒れ込めば、わたしの体は自然と眠りに落ちていた。