重い足取りで屋敷へ戻ると、丁度帰ってきた伯爵と鉢合わせになった。
嬉しいような、嬉しくないような。どちらにせよ夕食時には顔を合わせてしまうので、あまり考える意味はなかった。
馬車から降りた伯爵と目が合うと、途端にその秀麗な顔の額に皺が寄る。
そんな顔をしていては皺の跡が取れなくなってしまいますよ。
なんて心の中で突付いてみたって声には出て来ない。
「何か成果はあったか?」
待っていれば良いのにわざわざ歩み寄ってくる。
ふわりと香るレモンの爽やかな香水に自然と肩の力が抜けた。
「いえ…ただ、わたしが申し上げておりました甘い匂いはどうやら花の香りのようです。」
「花?」
「えぇ。娼館に出入りする花屋を回ろうかとも思いましたが、あまり遅くに伺っては失礼かと思い帰って参りました。」
「そうか。コートを置いて来たら私の部屋に来い。」
あぁ、やっぱりわたしの様子に気付いているらしい。
冗談めかして「夜のお相手ならお断りしますが、」と言うと軽く頭を小突かれた。
二人で屋敷の中へ入り、伯爵は自身の部屋へ、わたしも自分の部屋へと一旦戻る。
口には未だアズールとも生々しい感触が残っていて部屋にある備え付きの洗面台で口を漱(すす)いでみても残っていた。
気持ち悪いとは言わないが、お世辞にも良い感覚とは言えない。
このままでは食事もロクに出来ないかもしれないと頭の片隅で考えつつ、コートを壁のフックに引っ掛けて、一度鏡の前で服を確認してから伯爵の下へ行く。
蝋燭で仄かに照らされた廊下を歩く足音だけが木霊した。
…処刑台に向かっているような気持ちになるのは何故だろうか?
重厚な木製の扉をわたしは開けた。
「伯爵、瀬那です。」
「座れ。」
大きめのソファーにゆったりと腰掛けた伯爵が顎で自身の正面にあるソファーを示した。
それに素直に従って座れば殊更その整い過ぎる顔が眉を顰める。
互いに何も言わないまま沈黙が広がった。
伯爵が何を考えているのか分からないのでは下手に口を出すことができない。何より今のわたしは伯爵とくだらない言い合いをするほど気力も残っていない。
伯爵が淹れたのだろうか。目の前に置かれたティーカップから紅茶を一口飲む。
…何だ、紅茶を淹れるのも上手いじゃないか。このメイド泣かせめ。
更にもう一口飲んでからカップをソーサーに戻すと漸く伯爵が口を開いた。
「何があった。」
疑問系ではない問いかけに思わず苦笑してしまう。
「色々と。」
「具体的に言え。阿呆。」
言えたら苦労しないんだけど、ね。
このやや潔癖症気味な伯爵に知られたらそれはもう雷が落ちるだろうことは予想済み。悪いともう二度と行くなと言われてしまう。
あそこはあれで色々と情報が拾えるので重宝しているのだ。
「疲れました。」
不思議なことに紅茶の少しの渋みと少しの甘みが、あの感触を消してくれる。まるで魔法だ。なんてちょっとロマンチック過ぎるだろうか?たまには感傷に浸ってみたくもなる。
不意に伯爵が立ち上がったかと思うと、わたしの傍まで来て、いきなり頭を撫でてきた。
優しく、労わるような手付きに一瞬反応が遅れてしまう。
「…伯爵?」
「何だ。」
「もしかして、どこかに頭を打ち付けたりしませんでした?」
「…失敬だな、お前は。」
だってこんなに優しいなんて少々空恐ろしい。
溜め息を吐きながら離れていく手に手袋が付けられていないことに、驚いた。普段必ず手袋をしているのに珍しい。
だが美味しい紅茶と伯爵の突拍子のない優しさに、落ちていた心が浮上した気がした。
なんだか良い様に転がされてる気がしないでもないけれど、今日は乗せられておこう。
タイミング良くメイドが夕食の時間だと呼びに来たので一緒に食堂まで歩いていくことにした。
実は伯爵は結構長身で、立たれるとわたしは肩よりも少し低いくらい。これでも百六十なのに。たぶん伯爵は百八十を軽く上回っているのだろう。
どうしようもないこの差のせいで大概わたしは子どもに見られてしまうのだ。
実年齢を言うとほとんどの人々が驚く。
全く、一体何を食べて、何をすればこんなに高く育つのだか。
「…何だ?」
ジッと見ていたせいか伯爵がチラリと視線を向けてくる。
こんなくだらないことを言うつもりもなく、何でもありませんと言えば釈然としない様子でそうかと呟いた。
気になるなら聞き直せばいいのに。そういうことをしない所も伯爵の優しさなのか、それとも弱さなのか。
どちらにせよわたしの主人であることに何ら変わりはない。
…もうアズールからあんな風に情報を得るのは止めにしようか。
こう何度も世話をかけていては悪いし、何より伯爵を裏切っているような気がして居た堪れない。
食堂では既に食事の支度が整えられており主人を待つ給仕達が壁際に立ち並んでいる。この空間に慣れたとは言え、やはり入室するときは何時も緊張してしまう。
主人と使用人が一緒に食事なんて本来絶対にありえないのだ。
なのにその主人が許可するのだから、他の使用人たちは口出し出来ないし、わたし自身も反論出来ずにいる。
嫌ではない。一人で食事をするよりも誰かと一緒の方が何倍も美味しく感じる。けれど流石にこれは色々と不味いのではないだろうか?
先に席に着いた伯爵が不審そうな目でわたしを見てくる。
「? 何をしている、さっさと座れ。」
「あ、はい。」
わたしが席に着くのを確認して漸く彼は食事に手を付け始めた。
不器用な方法でしか優しくできない主人だし、わたしもよく色々と言うけれど、しっかり感謝もしている。恩に報いたくて仕事の手伝いもしている。
何時か受けた恩を返せる日が来るといいんだけど。
目の前の色鮮やかな食事に舌鼓を打ちつつ今日のことは忘れることにした。