兄の車でクラブバーへ向かう。
運転席で煙草を銜えながらハンドルを握る兄をぼんやりと眺めつつ、志貴は助手席で本を抱えたまま座っていた。
兄は視線に慣れてしまっているのか特に反応も見せず運転に集中している。
煙草に火は点いていない。
この兄は志貴の前ではあまり煙草を吸わない。吸ったとしても離れているか、煙が届かないようにしている。
詰まるところ、彼は妹に甘かった。
「何か食いたい物あるか?」
ジッと自分を見つめてくる妹に兄が問う。
志貴は視線をしばし宙に向けてから、ポツリと「…ない。」そう呟いた。
それを予想していたのか兄は小さく苦笑してからチラリと志貴を見て「んじゃいつもの日替わりでも頼むか。」と言う。
食に対して興味のない志貴は大抵同じ物しか食べない。
出されれば食べるけれど特に好き嫌いもなく、かつ選んで食べるという考えをあまり持たないせいか毎日でも毎食でも同じ物を食べることが多い。
もちろん、そんな事を兄が許すはずもなく、あれを食べろこれを食べろと色々言っている。
ぼんやり前を向いた志貴を兄はまた一度チラリと見てから、自分が働くクラブバーの駐車場へ車を乗り入れた。
二人で車を降りて珍しく正面から入る。
昼間ということもあってか人は少ない。朝から踊る者もいないからか店内はわりと落ち着いていた。
「おや、珍しいですね。」
マスターが嬉しそうに笑った。
仕事ではなく普通に客としてきた二人を快く迎え入れ、志貴に視線を移す。
「頬、痛くありませんか?」
コックリ頷いた志貴にそれは良かったと言って飲み物を出した。
兄が自分の食べる分と志貴の食べる分の日替わりランチを頼めば、マスターはすぐに調理場へと消えていく。
その後ろ姿を見送ってから兄は志貴へ視線を向けた。
「志貴。」
「?」
「昨日のこと覚えてるか?」
ストローでぐるぐると飲み物をかき混ぜていた途中で声をかけられて見上げれば、真剣な顔の兄がいる。
…昨日のこと?
「…雨降ってた。」
「うーん、確かにそうだけど違うなぁ。昨日、ここで殴られただろ?」
トントンと左頬を指で示す仕草にうんと頷く。
「殴られたヤツの顔、覚えてる?」
「…男だった。」
「他には?」
「…………。」
兄がガックリと肩を落とすのをぼんやりと眺めていた。
殴られたことは覚えている。それなりに痛かったし、拳だったから多分男。
でもそれが一体何だと言うのだ?
先に続くであろう兄の言葉を待つ。
「あのな、ここでは昨日志貴を殴ったヤツも、外で会ったヤツも偉いんだ。お前はそう思わないかもしれないけど、偉いヤツらに文句を言ったり馬鹿にしたりしちゃいけない。」
「してない。」
「うん、多分そうだと思ってたよ。お前はただ思ったことを言っただけだ。…でも、少しでも良いから気をつけてくれ。お前は俺のたった一人の妹で、その妹が殴られるなんて姿、さすがにもう見たくないからさ。」
「………わかった。」
考えるような仕草をしてから殊勝に頷いた志貴に兄はホッとした表情をする。
志貴は頭が悪い訳ではない。普段は考えることを放棄しているだけで、頭の回転自体はそれなりに早いし機転も利く。
きちんと考えて、そうして頷いたのだから恐らくもうあのような事は起きないだろう。
またぐるぐると飲み物をストローでかき混ぜ始めた志貴と、そんな妹を眺めている兄の下にマスターが料理を持って戻って来た。
出された料理は志貴のハンバーグにだけ小さな旗が立っていた。
黒地に白で‘H,d,s’と描かれた旗を志貴はマジマジと見つめる。
「好きでしょう?ハデス。」
「ん、好き。」
「マスター、誤解を生むような言い方しないでくださいよ!」
見る者が見れば分かる程度に嬉しそうに旗を見る志貴。その様子にニコニコ笑うマスターに、兄が慌てて言う。
けれどマスターは笑ってとぼけたフリをした。
そんな兄とマスターのやり取りを気にしていなかった志貴がハンバーグを一口食べる。
「どうですか?」
「…おいしい。」
「それは良かったです。」
無言で食べる妹を見てから、兄もようやく料理に手を付けることにした。
ハデスの旗は更に端に置かれて汚れていた部分はナプキンで綺麗に拭かれている。
よほど気に入ったらしく時折旗をクルクル回す様子にマスターと兄はどちらからともなく笑みを浮べた。Prev Novel top Next