志貴が家へ帰ると起きたのだろう兄がリビングのソファーに沈んでいた。
まだ眠いのなら部屋で眠ればいいものを、テレビもつけっ放しのまま眠りこけている。
それに一瞥をくれてから自室へと戻った。
することも特になく、ベッドに寄りかかって本でも読むことにしようと本棚から適当に本を抜き取って床に座る。
けれど、すぐにバタバタと慌ただしい足音がして部屋の扉がノックされたため仕方なく立ち上がって扉を開けた。
いたのは言わずもがな兄だった。
「志貴、昼は慶介(けいすけ)さんトコで食おう。」
どうやら起きたらしい。
慶介、とは昨夜行ったクラブバーのオーナー兼マスターの名前である。
頷いた志貴に少しホッとした表情で笑い、いきなりごめんな、と言って兄も部屋へ戻った。
それを見送ってから扉を閉める。
…そういえば殴られた。
そっと頬に触れると腫れはほとんどなかった。触るとやや痛いけれど問題はなさそうだ。
雨で濡れて冷えたからかもしれない。
本を読む気も削がれてしまい、そのまま勢い良く寝転んだ。
ベッドは軽い音を立てたものの何の不安定さもなく志貴を支える。
何時からだろうか、こんなにも眠れなくなってしまったのは。
何時になったら何も考えずに眠れる日が来るのだろうか。
真っ白な天井をぼんやりと眺めながら志貴は何もせずにいた。
――このままでは、何時か倒れてしまうよ。
医者の言葉を思い出してふと笑みが浮かぶ。
そんなことを言われたってどうしようもないじゃないか。自分自身でも治しようがないんだから。
本を抱き締めるように腕の中に閉じ込め、目を閉じて、昼までの長い暇は今まで読んできた神話の物語を思い出すでもして時間潰しをすることにした。
色々な神を思い出す中でふと冥府の王ハデスに行き着いたとき、昨夜の出来事が記憶の底から浮かんでくる。
自分が付けた名を持つ男。
全体的に黒を基調とした姿はまさに冥界の王のようで、その冷めた雰囲気の奥に隠された獰猛な気配は少しだけ志貴の心に残っていた。
「…ハデス。」
それは死の象徴。
何となく、だけれど……また話してみたいと思う。
もう人との関係なんて久しく築いていなかったが機嫌が良いのか志貴は閉じていた目を開けて腕の中の本を見つめた。
もし話が出来たらこれをあげよう。
自分が一番好きな神の名前を持つあの男に、その名の人物がどのような者なのか知って欲しい。
自然と上がる口角に気付かないまま志貴はベッドの上で小さく縮こまりながら、昼が来るのを待った。Prev Novel top Next