真夜中の校舎内に足音が響く。
シンと静まり返っている廊下は暗く、非常灯で何とか足元が見える程度の闇に包まれながら豊永志貴(とよなが しき)は帰宅しようとしていた。
通常昼間に高校生が通う学校を全日制と呼び、夜間に高校生が通う学校を定時制と言う。
志貴はその定時制高校に通っていた。授業を終えたのは午後九時過ぎ。
部活動に勤しむ生徒は更に一時間程校舎に残るが、志貴は美術部の幽霊部員であったため真っ直ぐ家えと帰るところだった。
正面玄関から出れば地面を水滴が叩く雨音が外を覆っている。
携帯を開くがメールも着信もない。
どうやら兄は仕事中で気付いていないらしい。
このまま待っていたとしても迎えが来るかどうかも分からない。
仕方なくザァザァと降る雨の中を見上げて小さく息を吐き出してから、志貴は足を踏み出した。
髪や首筋に当たる水滴の冷たさと服が徐々に張り付いていく感覚に若干の不快感を感じて眉が顰まる。
近くの商店街まで走れば傘を差した人々が行き交う。
けれど傘も差さずに走る志貴を振り返る者はいない。
商店街の裏、目に痛いネオンを横目に走り抜け、目的地に着いたのは走り始めてから十分以上も経ってからであった。
Earthquake(アースクエイク)。
兄が働くクラブバーだ。
結構有名だが、入れる人物も限られているその店先は雨のせいもあってか人影はない。
濡れ鼠となったまま入る訳にもいかず、かと言って兄が出て来るのを待っていたのでは風邪を引くかもしれない。
あぁ、面倒だなと店の軒先に座り込んで目の前に広がる水溜りをぼんやり眺めていた。
それで何かが解決するということでもない。
でもそれ以外に何かをするつもりも考えるつもりも志貴の中には存在しなかった。
どれだけ時間が経っただろうか?
不意にコツコツと靴がコンクリートを踏む音が聞こえて、顔を上げる。
何気なく横を見ればスラリとしたジーパンの足がある。
それを辿って行けばやけに顔立ちの整った男が立っていた。
年は志貴とそう変わらないくらいか。真っ黒な髪に青い瞳がとてもよく映えて見える。
男は着ていた皮ジャンから煙草を取り出し、箱から一本銜え取ろうと視線を落として漸く志貴に気が付く。
「……何してんだテメェ。」
落ち着いた声が呟くように問いを落とす。
頭上から聞こえてくる心地よい低さの声に耳を傾けながら水溜りに視線を戻した。
「待ってる。」
「あ゙?誰をだよ?」
火を点けた煙草から紫煙を吸い込み、ゆっくり吐き出す男。
風に流れてその煙が微かに志貴にかかったが嫌な匂いではなかった。
答えない志貴と、答えを待っているのかどうでも良いのか追求しない男の間に沈黙が広がる。
やがて視線を水溜まりからスイと男の左腕へ滑らせた志貴が呟く。
「……H d s(ハデス)。」
男の左肩から腕全体を覆うように彫られたタトゥーをジッと見つめた。
恐ろしい漆黒の死神の如きタトゥーは見る者に戦慄を与えるだろう。
たが怯えも見せずにタトゥーを見つめる志貴に、男はチラリと視線を投げかける。
「よく分かったな。」
「……ギリシア神話、好きだから。」
雨に打ち消されてしまう紫煙に志貴の視線が移る。
不意に立ち上がり男を見上げた。
「携帯見ろって、バーテンのトキに伝えて…。」
「俺をパシるつもりか。」
「違う。ただのお願い。」
別に伝えなくてもいいよ。
そう続けた志貴に男は微かに目を見開いた後に、口角を少しだけ上げて笑った。
「よく言うぜ。」
言うって分かってやがるクセによ。
吸い終えた煙草を足で踏み消すと男は店へと戻って行く。
その背中を見送ってから、志貴はまた延々と降りしきる雨を眺めて待つのであった。Novel top Next