背後をついて来る軽い足音を聞きながら、こんな穏やかな日々が続いたらどんなに良いだろうとエリスは思った。
それは仕事上、そして少女との現在の関係上では決して叶わない。
自室に入り、チェストに衣類を仕舞って溜め息を零した。
かと言って仕事は辞められない。
元々性に合っているし、軍人として生きてきた今までを今更捨てる事も出来なかった。
軍人以外の自分など考えもつかない。
廊下へ出れば少女の部屋の扉が丁度開く。
少女に笑いかけてリビングへ戻った。
「…?」
あれから読書を再開し、何時間経っただろうか。
ふと手元が暗くなってきたなとエリスは顔を上げた。
窓の外は鮮やかな緋色に染まり室内はだいぶ薄暗くなってしまっている。
隣りにいたはずの少女がベランダに出て空を見上げていた。
本をテーブルに置いてそっと窓に歩み寄る。
空を見上げたまま微動だにしない小さな背は頼りなく、寂しげだ。
それが出会った頃に見た窓辺に佇む姿とダブって見え、泣いているような、そのまま消えてしまいそうな感覚に囚われる。
気付けば腕の中に少女を閉じ込めていた。
「エ、エリスさん…っ?!」
慌てた声で名前を呼ばれる。
たが振り払うことも嫌がることもなく、腕の中でやや居心地悪そうに身じろぐだけだ。
抱き締める腕に少しだけ力を入れれば、細い手が添えられる。
「…君が、泣いているんじゃないかと思った。」
エリスの言葉にピタリと少女が体を固くする。
「…私、泣いてませんよ?」
「そうみたいだな。」
ちょっと覗き込んで見えた横顔は頬が赤くなっているが、泣いた様子は欠片もない。
華奢な体を抱き締めたまま見上げた空には綺麗な鱗雲が一面に浮かんでいる。
愛しい恋しいと想う気持ちが触れ合った場所から少女へ伝われば良いのに。
少し冷たくなってしまっている体を暖めるために懐へ深く抱き込む。
添えられた手がしっかりとエリスの腕を掴んだ。
硬直していた華奢な体からゆっくり力が抜けてほんの僅かだが、少女の体重が胸元にかかる。
……これは…、
「――…期待しても、良いか…?」
何が、とは言わなかったけれど少女には伝わったのだろう。
夕焼けとは違う赤みが細い首を染めていった。
返答はなかった。代わりに腕を掴む手に力が込められる。
柔らかな黒髪を指先で梳き、赤く色付いた耳へ唇を寄せた。
「……君が好きだ」
囁いた途端、腕の中にいた少女がパッと振り返り、薄く膜を張っていた黒い瞳から涙が零れ落ちた。
何度も小さな口が開閉を繰り返し、しかし言葉にならなかったのか、くしゃりと顔を歪めてまた正面に向き直ってしまう。
「わ、わたしっ、私…っ」
「あぁ。」
しゃくりあげ始めてしまった少女の黒髪を撫でる。
促すよう優しく相槌を打つと、細い肩が震えた。
「迷惑ば、かり…かけて、っ」
「迷惑なんて何一つ無かった。」
「でもっ…私、エリスさ、ん…に、なにもできな、…」
「ユイ」
名前を呼び、少女の体を此方へ向かせる。
ぽろぽろと涙を零す目元にエリスは自身の唇を押し当てた。
口の中に微かな塩っぱさを感じながら言葉を紡ぐ。
「無理に何かをする必要も、気にする必要も無い。ただ、傍に居て欲しい。」
少女を強く抱き締め、逃がさないようにしてしまう。
「私の我が儘に、付き合ってくれないか…?」
「…っ、」
「……ユイ?」
息を詰める音がして、少女の手が背中に回される。
細い腕が縋るように服を掴んできた。
「私で、いいなら…ずっと、付き合わせてください…っ」
「あぁ、喜んで。」
胸元に埋まる頭へ何度もキスを落とす。
言いようのない喜びが全身に広がり、柄にもなく少女に甘い言葉を囁いてしまう。
「ありがとう、ユイ。君が好きだ。君さえ傍に居てくれれば良いと思えてしまうくらい、君を愛してる。」
「エ、エリスさん、止めてください…っ。は、恥ずかし過ぎて…死にそう、です…っ」
恐らく羞恥で震えているだろう少女に自然と笑みが浮かぶ。
「君に死なれたら、私も生きていけないな。」
だからこれ以上は口を閉じよう。
腕の中から小さく聞こえる唸りともつかない声に苦笑した。
そういう反応をされると虐めたくなってしまう。
しかしやり過ぎて少女の機嫌を損ねたくはなかったので、宥めるために優しく背を叩いてやる。
完全に夕日が沈むまで、エリスは少女を抱き締めたまま空を眺めていた。Prev Novel top Next