「…どうした?」
ジッと見つめてくる黒い瞳を見つめ返し、問う。
けれど少し口元をもぐもぐさせただけで志貴は何も言葉を発しない。
何時もズバズバと物を言う志貴にしては随分珍しいことだ。
誰も通らない廊下で泰河はやや困りながらも志貴を見下ろす。
不意に、志貴の小さな口が開く。
「――…行かないで。」
どこに、とか、何が、とか様々なものが省かれた言葉だった。
それでも泰河はその言葉を聞いた瞬間、どうしようもないくらいの想いが胸の内に溢れて来る。
きゅっと握られた手が少し力を込めて己の手を掴む。
「一人でも、へいきだった。でも、泰河と会うと、離れるのが怖い。」
「…志貴、」
瞼の裏に隠れてしまった黒い瞳。
抑揚がないはずの声がほんの僅かに震えてる気がして、気付くと泰河は志貴を抱き締めていた。
普段は決してなかった細い腕が背へ回される。
隙間を埋めるように、確かめるように抱きついて来る志貴。
その幼い頃の境遇をふと思い出して泰河は細い肩を撫でながら思う。
こんな細い肩でツラい記憶を背負って生きているのか…と。
「……すき…。」
腕の中の志貴を見下ろせば泣いていた。
ハラハラと瞳から零れ落ちる涙の美しさに一瞬、息を呑む。
「すき。だから、一緒がいい。」
真っ直ぐな言葉だった。今まで聞いたことがないくらい、真っ直ぐな告白。
媚びも計算も、何もないまっさらな感情の言葉。
それが荒れた泰河の中に溶け広がっていく。
「…言っとくが、俺は不良だ。喧嘩だってする。」
「知ってる。」
「怪我する可能性も…下手すりゃ死ぬことだってあるぞ。」
過去に何人か、チームの抗争中に重症を負って死んだ者もいた。
志貴も、泰河も一人の人間なのだ。
何時何が起こるか分からない。
一般人のような生活ではなく、泰河の日常は危険が満ちている。
それでも志貴は引かなかった。
「関係ない。ずっと、好き。」
「後悔しても文句言うなよ。」
「言わない。ぜったい。」
泰河は志貴の言葉を聞いて、キスをした。
先ほどのものよりもずっと深くて、ずっと優しい、労わるようなキスだ。
互いの唇が離れると、二人はどちらからともなく額を合わせ合う。
けれど、何故か志貴が目を見開いた。
「…トイレ。」
「は?」
唐突過ぎる単語に泰河は反応が遅れてしまう。
志貴はすぐにパタパタと化粧室へ行ってしまった。
その背を見て、何なんだと思いつつも泰河は廊下の壁に寄りかかる。
しかしそう時間もかからないうちに志貴が戻ってきて、飛びつくように泰河へしがみ付いた。
「血…!」
「?」
「どうしよう、血がでてた…。」
「…待て、それって…。」
トイレと血という単語に泰河も目を見開いて目の前の志貴を見た。
それは子どもから大人へ成長していく証。
少女から女になる‘生理’ではないのか。
泰河は慌てて志貴を連れて店へ出るとマスターと朱鷺にその事を報せ、生理用品と店にいた女と共に志貴を化粧室へと押し込んだ。
その日、志貴の夕飯が赤飯だったのは言うまでもない。
「赤ちゃん、できるようになったの?」
「あぁ。」
「……赤ちゃん。」
「卒業したら、な。」――Fin.Prev Novel top