かなり激しい曲を弾いているからか泰河が入室したことに志貴は気付いていない様子だった。
久しぶりに見た姿は相変らず小さくて、女らしい丸みがあまりない華奢な体付きだ。
扉の脇に寄りかかって曲が弾き終わるのを待つ。
そうしてそっと歩み寄って後ろから細い肩を泰河は抱き締める。
驚いたのか黒い瞳は僅かに見開かれて振り返り、志貴は泰河が視界に映るとふっと目元を緩めた。
後ろにいる泰河へゆっくり体重を預ける。
「…泰河。」
志貴の小さくもよく通る声に名を呼ばれて、泰河の抱き締める腕に力がこもる。
まるで逃がさないとでも言う風に抱き込まれながら志貴はほんのりと香る煙草の匂いに目を閉じた。
「離れると、さびしい。」
「あぁ。」
「一緒がいい。」
「…分かってる。」
見上げてきた黒い瞳を見返し、泰河はキスを落とす。
何度も、何度も、触れるだけの啄ばむようなキスは甘く、優しく志貴の寂しさを溶かす。
もっとと強請る志貴に泰河は自身の欲望をグッと抑えて宥めるように頭を撫でた。
これから銀二たちが来る部屋で衝動のまま志貴を押し倒す訳にはいかなかった。
擦り寄ってくる志貴をあやしながらも温かな体温に泰河も小さく息を吐き出す。
抱き締めていた肩から手を離した。
「ピアノ、聴かせてくれ。…まぁ、銀二が来たら他の奴が弾きてぇらしいけど。」
泰河の願いに一も二もなく志貴は頷く。
ソファーに座って落ち着いた泰河を見て、志貴の細い指がピアノの鍵盤に乗せられる。
流れ出した美しい音色の旋律は春を告げるかのように柔らかく、美しく、それでいてどこか喜びを感じさせる曲だった。
鍵盤を弾く志貴の横顔はどこか嬉しげである。
が、急に扉が勢いよく開き、銀二が入って来た。
それと同時にピタリと旋律が止まってしまったので思わず泰河は銀二を睨み付けた。
顔を上げた志貴が銀二を見て座っていた向きを変える。
「…銀二、お疲れ。」
「うん、お疲れぇ。」
志貴から話しかけるのは珍しかった。
けれどすぐに銀二の隣りにいる少女に視線を向けたところを見ると、どうやらそちらが気になって声をかけたようである。
問いかけるような視線に気付いた銀二が少女の背を軽く押して一歩前に出させた。
「オレのオトモダチだよぉ。」
「と、遠野千鶴(とおの ちづる)ですっ。」
一生懸命、という言葉がピッタリな様子で名乗る少女を、志貴は相変らず冬の湖のように静かな黒い瞳で見つめる。
「…豊永志貴。」
「志貴さん、ですか…?」
「ん。」
志貴は先ほどの泰河の言葉を覚えていたらしく、座っていた椅子をポンポンと軽く叩く。
オドオドと戸惑う少女はまた銀二に背を押されてピアノに歩み寄った。
入れ替わるように志貴は立ち上がって、ソファーに座る泰河の隣りに越しを下ろす。
寄り沿って、くっつくと黒い瞳を閉じた。
「ちづちゃん、ピアノ弾いてぇ?」
「え、でも…。」
「ヘーキだよぉ、誰も怒んないってぇ。」
やはりまだ戸惑ったままだった少女を銀二はピアノの椅子に座らせてしまう。
そのまま横に立ち、鍵盤に触れて銀二は少女を見下ろした。
鍵盤に指を触れさせた少女は、始めは怖々と、次第に楽しげに旋律を奏でて行く。
それを嬉しそうに見る銀二に泰河は視線を向けながらも、隣りにいる志貴の手を、己のもので優しく包み込んだ。
曲が終わると志貴は泰河と手を繋いだままペチペチと小さく拍手をする。
「…ベートーベン、ピアノソナタ‘悲愴’第二楽章。」
「! わ、分かるんですか…?」
「前に、弾いたことがある。」
聞き覚えのあるような曲だったのは、そのせいだろう。
だがこれ以上ここにいて銀二の邪魔をするつもりはない。
「志貴、行くぞ。」
小さな体を引き上げ、銀二が何か言う前に部屋を出る。
志貴も特に何も言わずに着いて来る。廊下を歩き始めてすぐ、くんっと繋いだままの腕が後ろへ引かれた。
正確には立ち止まった志貴に引っ張られたのだ。Prev Novel top Next