それから志貴は店には来なかった。
数週間前に年度末から新年度に変わり、学年が一つ上がったからか色々と忙しいようだった。
委員会を決めたり授業に戻ったり。正直言うと自分には全く関係のない遠い言葉ばかりだと泰河は思ったものだ。
そのせいで毎日のように喧嘩だ何だと大騒ぎであったのは言うまでもない。
学校へも行かずに店で酒を仰っていた泰河の携帯が鳴った。
ディスプレイには銀二の名でメールの受信が表示されている。
中を見ると放課後、またあの少女を連れて店に行くと書かれていた。
グランドピアノを使いたいという旨が、馬鹿にしているとしか思えない絵文字と共に下の方に付け加えられている。
オマケに迎えに来い、とも。
手の中にあったチューハイの缶を握り潰してしまったのは仕方がないだろう。
中身がなかったので汚れる事もなかったが。
…余談だが志貴はピアノが弾ける。
あまり弾いている姿を人に見せないものの、腕前はかなり良いと泰河は思っていた。
久しぶりにやっと志貴に会い、そのピアノを聴こうと思っていた矢先にコレであるのだから、苛立ちたくもなる。
ソファーから立ち上がって缶を捨てて、バイクのキーを取った。
「銀二のトコに行ってくる。」
「分かった。志貴はどうする?」
「今日はピアノ借りる用事が出来たから、それまで奥で弾いて待たせといてくれ。」
「了解。」
笑った朱鷺に後を任せて泰河は店を出た。
脇に止めてある己の愛車にキーを差し、エンジンをふかせるとヘルメットも被らず発進する。
法定速度を越えて道路を駆け抜けてしまえば十分とかからず高校へ到着した。
駐輪場の傍に停め、バイクから降りればタイミング良く授業終了を告げる鐘の音が校舎全体に響き渡った。
ざわめき出す校舎に足を踏み入れると集まるうざったい視線を無視して泰河は教室に向かった。
ただし泰河と銀二はクラスが違う。
それで銀二はあの少女と出会ったらしい。
ぶっちゃけた話をすると泰河は学年が一つ上がったとか、新年度になったとかいう事を全て忘れていた。
今自分がどのクラスなのかも分からないが、とりあえず銀二のクラスだけは知っており――本人が話していたので――、自分と違うクラスである事くらいしか頭になかった。
面倒臭かったが教室に行くと、何故か泰河は少女に「授業があるのに、呼ぶのは…よくないですっ」と言われて一瞬何のことだと首を捻る。
思い当たる節もなかったが後ろで笑う銀二を見つけて、どうせコイツが何か言ったのだろうと踏んで適当に頷いておく。
少女も行くよとメールでも聞いて分かっていることを言われ、ふーんと軽く流す。
「ねー、早く行かなぁい?」
「あぁ。」
携帯を見れば六時近い。
これで戻れば今日は志貴に会える。
よく知らないが今日は授業がなくて早く終わるのだと聞いていたので、さっさと帰ってしまいたかった。
「お前、バイクか?」
「うんにゃ、歩きだよぉ〜。」
「なら俺は先に戻ってるぞ。」
いちいち付き合ってらんねぇ。
駐輪場に戻り、バイクのエンジンをかけると泰河は飛び乗って、後輪を滑らせながらクルリとターンして道路へ出る。
何のために呼ばれたんだと舌打ちをしつつグングンスピードを上げていく。
一瞬警察に捕まると厄介だなという考えが頭の端に浮かんだがすぐにどうでも良くなった。
そんなものを怖がっていて不良なんぞ出来るものか。
店に着いた泰河はバイクを部下に預け、店の扉を勢いよく開けた。
顔を上げた朱鷺が店の奥へ続く廊下を指差す。
それを横目に廊下へ行くと微かにだがピアノの旋律が流れるように聴こえて来る。
引き寄せられるように音のする扉を開ければ遮るものを失くした音色がダイレクトみ耳に飛び込み、グランドピアノの前に座る小さな背が視界に映った。Prev Novel top Next