志貴がクラブバー・Earthquake(アースクエイク)で泰河たちと会うようになってから一週間。
特にこれと言うほど大きな出来事もなくいつも通りの生活を過ごしていた。
昼間は店に行き、夜は学校、帰って来たらまた店に行くという繰り返しではあったが、志貴は苦痛とは感じていなかったし、泰河たちと顔を合わせることは彼女の中では日常化しつつあった。
だが、その日の夜、授業を終えた志貴は問題を起してしまった。
それは兄であり保護者代わりでもある朱鷺のもとに届いた一件の着信から始まる。
「もしもし…、はいそうです。――…え?妹がですか?!」
珍しく志貴の担任から来た電話に出た朱鷺は驚きのあまり大声を出してしまい、店内にいた誰もが訝しげに振り返る。
けれど、それすら気にしている余裕がないのか朱鷺は電話片手に返事をしながら眉を顰めていた。
そうして通話を切るとすぐにマスターへ振り返る。
「すんません、ちょっと志貴の学校まで行ってきます。」
「何かあったんですか?」
少々焦った様子の朱鷺にマスターが眉を下げて心配そうに問う。
「よく分からないんですけど、志貴が上級生を殴ったみたいなんですよ。」
「………殴った?」
マスターよりも先に反応したのは泰河だった。
志貴は確かに普通の人とは違うけれど、突然意味もなく誰かを殴るような人物ではない。
もちろんそれは朱鷺だけでなくマスターも理解している。だからこそ、まさかの事態に朱鷺は混乱していた。
とりあえずは話を聞かないことには始まらないと車のキーを引っ掴む。
「気を付けて。」というマスターの言葉に背を押されるように朱鷺は店を飛び出して車へ乗り込み、志貴の通う高校へ車を走らせる。
赤信号での信号待ちの時間すら惜しい。
法定速度をオーバーしながら何とか到着すると正面玄関から校内へ入る。
ワイシャツにベストというバーテンの格好のせいか定時制で授業を終えただろう私服の生徒たちが朱鷺を振り返ったが、構っている暇はない。
定時制の職員室へ駆け込むように朱鷺は入った。
「すみません、豊永(とよなが)志貴の兄の朱鷺といいます…!」
息を切らせながら入って来た朱鷺に職員室にいた教師の一人が椅子から立ち上がる。
「こちらです。」と促されて朱鷺がついて行くと、‘生徒指導室’と書かれた部屋に教師は歩いていく。
ドアを開けられるとテーブルがあり、椅子に座った志貴の正面には額に大きなガーゼを張った明るい茶髪の少年と赤みがかった茶髪の少年が二人。
端には志貴の担任も座っている。
担任は朱鷺を見ると立ち上がった。
「夜分遅くに申し訳ありません。」
言葉通り申し訳なさそうに頭を下げる担任に朱鷺は首を振る。
「いえ……それで、一体どういうことですか?」
「それが――…、」
「どうしたもこうしたもねぇよ!!」
担任が口を口を開くのと同時にバンッッと勢いよくテーブルを叩きながら、声を荒げて明るい茶髪の少年が立ち上がる。
かなり興奮しており憤慨していることが一目で分かる。
朱鷺の胸倉を掴む勢いで椅子を蹴飛ばして歩き寄った。
「殴られたんだよコイツに!」
コイツ、と少年は志貴を指差す。
「どういう教育してんだよ!!いきなり椅子で殴ってきやがって…!!」
「椅子で?」
「そうだよ!!そのせいで怪我したんだぞ!!」
少年は額のガーゼを今度は指差した。
少し血の滲んだガーゼは真新しい。
赤みがかった茶髪の少年も同意するように頷いた。
担任がすぐに明るい茶髪の少年を朱鷺から引き離し、椅子に座らせる。
朱鷺はそれにややホッとしつつ志貴へと視線をやった。志貴はこの騒ぎにも動じず、むしろ興味すらなさそうに視線を斜め横へと向けている。
「志貴。」
朱鷺が名前を呼ぶと黒い瞳がスイと兄へ向けられる。
「何で椅子で殴ったりしたんだ?」
「………。」
「黙ってたら分からないだろ?」
優しく、けれど有無を言わせぬ朱鷺の問いに志貴の口元がもぐもぐと微かに動く。
それは言おうとして、躊躇っているようにも見えた。
辛抱強く朱鷺が待っていれば何度か口元を動かしていた志貴がぽつりと「……悪く、言った。」そう呟いた。
そう聞けば誰もが志貴のことを言ったのかと思うだろう。
だが志貴は自分のことなど全く頓着していないし、そんなことを気にするような性格ではないことを兄である朱鷺はよく理解していた。
「誰のこと、悪く言ってたんだ?」
「…………ハデス。」
「ハデスって…もしかしなくても泰河のことか?」
「ん。」
こくりと頷く志貴に思わず朱鷺は目を見開いた。
担任も初耳だったのか驚いた様子で志貴を見ている。
泰河はこの辺りの地区を束ねる不良のトップで、もちろんかなり有名な人物で知らない者はいないくらいだ。
志貴は泰河と最近仲良くなり、それなりの関係ではあるものの、志貴がこうも誰かを気にかけていたとは思いもしていなかった。
朱鷺が本当かと聞く前に明るい茶髪の少年が怒鳴る。
「嘘だ!!」
「…本当。」
「デタラメ言ってんじゃねぇよ!」
「デタラメじゃない。言ってた。‘お前最近ハデスのお気に入りになったんだってな。どんなに強くたってお前みたいなヤツを女にするようじゃ、ロクなヤツじゃないんだろ?’って。」
恐らく一字一句間違っていないのだろう。
赤みがかった茶髪の少年が志貴の言葉に目を見開いたまま、口元をわななかせた。
志貴は泰河の悪口を目の前で言われ、思わず椅子で殴ってしまったのだろうか?
無感情過ぎる志貴の中に生まれた‘感情的’な行動に喜べばいいのか、困惑すればいいのか朱鷺は戸惑った。
「でも椅子で殴るのはやり過ぎですよ、豊永さん。」
担任にそう言われ、志貴は視線を逸らせた。
やり過ぎたという自覚は少しあるのかもしれない。
いや、手加減という考え事態が志貴にはなかったのかもしれない。
暴力を振るうことなど今まで一度だってなかったのだから、衝動のままに椅子を掴んで少年へ投げ付けてしまったのかも。Prev Novel top Next