泰河が目を覚ますと何かの授業がほぼ終わる直前だった。
銀二は既に起きていたようで傍に座っている男子生徒のノートを物珍しそうに眺めており、その男子生徒がビクビクと怯えているのを分かっていながらワザと話しかけたりしているようだ。
周囲は被害を被りたくないのか見て見ぬフリをしている。
「おい、銀二。」
「あ、泰河ぁ起きたの〜?帰る?ってかチョーつまんないし帰ろ〜?」
「あぁ。」
席から立ち上がれば、銀二も生徒から離れて後を付いて来る。
教室を出て行った二人に授業中だと注意できる者は誰もいなかった。
やがて授業終了を告げるチャイムが鳴ったが二人はそのまま校外に出て愛用の単車で店へと帰る。
学校にいたのはほんの一、二時間のことだった。
しかも私服で、である。
店に着くと銀二はすぐさま扉を開けて中へと入ってしまったけれど、泰河はポケットから煙草を取り出すと一本銜え、慣れた手付きでライターから火を移した。
灰一杯に吸い込んで美味そうに紫煙を吐き出す。
「おかえり。」
昨日今日で聞き慣れたアルトの声に振り返れば、ゆっくりと階段を上って志貴が歩み寄ってくるところだった。
携帯で時刻を確認すると三時半で、もう後一時間もすれば志貴も学校へ行く時間である。
「お前、今日学校は?」
「ない。」
「…無い?」
「全日制の文化祭準備で、学校休み。」
泰河の足元に座り込んで、壁に背をもたれかけ、志貴はぼんやりと空気に溶け消えて行く紫煙を眺めている。
今更だったが泰河は煙草を左から右手に持ち替えた。
左利きなので左手で持ってはいたが、そうすると志貴に思い切り煙が流れてしまう。
持ち替えた所で結局煙は流れてしまうが何となく泰河はそうしてしまった。
沈黙が志貴と泰河の間に落ちるも不思議と居心地の悪さはなく、何をするでも、話すでもなくぼんやりと空を見上げていた。
「泰河、」
他の音に掻き消されてしまいそうな程の小声で志貴が呼ぶ。
「何だ?」
「ハデスって考えたの、誰か知ってる?」
「お前だろ。」
「うん。何でか知ってる?」
「さぁな。死人の国の王って言うくらいだから、相当俺は悪く見えんのかもな。」
どこか自虐を含んだ言葉に、違う。と志貴は言った。
何時もよりほんの少しだけ強い口調に泰河は視線を足元へ下ろす。
真っ直ぐな黒い瞳が泰河を見上げている。
「ハデスは女神デメテルの子どものペルセフォネと結婚した。でも、ペルセフォネは最初、ハデスが勝手に死者の国に連れていったの。それでデメテルがすごく哀しむから、ハデスはペルセフォネに毎年半年だけ一緒に暮らすことを許した。」
珍しく饒舌な志貴に泰河は吸っていた煙草を口から離し、視線を正面へ戻した。
志貴も視線を空へ向けたが話すことは止めなかった。
「蛇に噛まれて妻が死んでしまったオルフェウスは綺麗な歌を歌う人。歌でケルベロスも眠る。門も勝手に開いてオルフェウスはハデスと会った。ハデスは怒ったけど、綺麗な歌声を聴いて妻のユウリデケを生き返らせてあげた。…オルフェウスは約束を破ってしまったけど。」
それはあの本で読んだ。地上に出るまでは振り返るなと言われていたのに、あともう少しのところで振り返ってしまい、結局妻は地獄へ引き戻されてしまい生き返らせることは出来なかったのだ。
「ハデスは良い神様。怖くて、厳しいけど、優しい神様。」
「俺とは似合ても似つかねぇな。」
「似てるよ。泰河とハデス。どっちもホントは優しいけど、みんな気づいてないだけ。」
クン、とズボンの裾が引かれ、泰河が足元をもう一度見下ろした。
細い手がしっかりと布を握り締めている。
「泰河はハデス。一番大好きな神様。」
何故こんな話をし始めたのか泰河には分からなかった。
ただ空を見上げている志貴の顔を数秒見つめた後に、自然と口から言葉が零れ落ちる。
「…サンキュ。」
「うん。」
泰河がふぅと吐き出した紫煙を、掴むような仕草で志貴は掻き消した。Prev Novel top Next