一滴の愛を君に(チャリ芽衣)
めいこい発熱企画に参加させていただきました。
一滴の愛を君に
何かがおかしいとは薄々気づいていた。いや…まあ、いつもおかしいことは確かなのだけれど、今晩は少しだけ違っていて。いつもみたいな余裕がなくて、嘘っぱちの笑顔も引きつっていて。決定的だったのは、今晩はマジックを見せてくれなかったということ。
私がチャーリーさんに会いに上野に行くと、彼は必ず何かしらマジックを見せてくれる。花を出す小さなマジックの時もあったし、象のミミちゃんを出す豪快なマジックだって、頼まなくても見せてくれていたくせに。でも、今日はそれがなかったのだ。
いくら神経が図太くて鈍感な私でも、今日のチャーリーさんがおかしいということには気づいていた。大好きな人なら尚更、だ。
「ねぇ、やっぱりチャーリーさんおかしいよ」
「ははは、何がおかしいのかな?僕はいたって普通。いつも通りだよ?」
ほらね、と彼は両手を開いてみせるけれど、そんなに苦しそうに言われても全く説得力がない。
「もうっ!隠さなくたっていいじゃないっ」
とうとう私も我慢ができなくて、思わずぐいっとチャーリーさんの左手を引っ張った…のだけれど。
「…熱っ」
彼に触れた右手が焼けるように熱い。驚いてチャーリーさんを見上げると、暗くて今まで気づかなかったけれど、心なしか顔も赤くなっているようだった。
―――これはもしかして。
その可能性を全く考えていなかったわけではない。そうではないけれど、まさかチャーリーさんに限ってそれが起こるなんて思っていなかった。だって…
「チャーリーさん、熱…あるよね…?」
物の怪が熱を出すなんてそんな知識、私は持ち合わせてなどいないから。
「いや、僕は熱なんて出してな…」
ふらりと揺れる燕尾服。私は慌てて彼の肩を抱き寄せた。
「嘘。もう立ってもいられないくせに」
地面に落とした羽根つき帽子も構わずに、私はそっとチャーリーさんの額に触れる。
ジュッ。そんな音が聞こえるくらいに、彼の額も熱かった。
いやいや、と最後の力を振り絞るチャーリーさんを引きずって、私はどうにか俥夫のいる所まで彼を連れて行くと、大急ぎで森邸まで走らせてくれるように頼んだ。
幸か不幸か、今日は鴎外さんも春草さんも帰りが遅く、フミさんももうとっくに屋敷を出ている時間だった。
シンと静まり返る薄暗い部屋に、チャーリーさんの荒い息遣いだけが響く。
こんなに苦しそうな彼を見るのは、これが初めてだった。人間ならまだしも、熱を出す物の怪に何をしたら良いのか皆目見当もつかず、私はただ濡らした手拭いを彼の額に当て、その力ない大きな手を握ることしかできないでいた。
「…そんなに悲しそうな顔をしないでよ。これくらいじゃ、僕はくたばらない。それに、朝が来れば、また視えなくなるんだからさ。こんなことしなくてもよかったのに」
汗をたらりと流しながら、困ったように笑うチャーリーさん。
今ではこんな突き放すような言葉だって、ただ私を想ってのことだというのはわかっている。だから余計に私は彼を突き放すことなどできないし、仮に朝が来てチャーリーさんが視えなくなったところで、彼の熱が引くという確証もなかった。そんな状況なのに、こんなことしかできない私自身に無性に腹が立った。もっと、何かできれば。知識があったら。大好きな人が苦しむ姿を見るのは、自分が苦しむよりも辛い。もっと八雲さんに物の怪について聞いておくのだった、と今更ながら後悔する。
「早く良くなってよ、チャーリーさん…」
ぎゅうっと握る手に力を込めると、彼はほとんど吐息だけを吐くように「うん」と頷いた。
やがて玄関の方からギィという戸を開く音が聞こえてきて、飛んでいた意識が急に現実に引き戻される。
「鴎外さんか春草さんが帰って来たのかな」
そう呟くと、ふいにチャーリーさんがしっ、と私の唇に人差し指を当てて「気づかれちゃうよ」と小声で囁くものだから、妙にドキリとした。
しばらくすると屋敷から音が消え、私とチャーリーさんの呼吸音しか聞こえなくなった。チャーリーさんもさっきよりは苦しそうに見えず、少し余裕が出てきたようだった。
「少しは良くなった?」
「うん、おかげさまで。ありがとう、芽衣ちゃん」
ぽん、と頭に触れる優しい感触。チャーリーさんの温かい手。
「消えちゃうんじゃないかって…このまま熱が冷めなかったら、もう二度と現れないんじゃないかって思ったんだからねっ…!」
安心したのと同時にとめどなく流れる涙。さっきまではあんなに強気でいたはずなのに、こんなにも涙が流れることに自分でも驚いた。
「ごめんね」
「謝っても許さない」
良くなってくれて嬉しいはずなのに、私の口からはそんな言葉ばかり溢れ出る。ぐしゃぐしゃな顔で泣きじゃくる私を、チャーリーさんは小さな子供をあやすようにただ優しく頭を撫でてくれた。
「泣かないで、芽衣ちゃん。笑ってよ、芽衣ちゃん」
その言葉に何故だか懐かしい違和感を覚えるのと同時に、頬を伝う涙がそっと拭われる。
「笑って。僕は君を泣かせるためにここに連れてきたわけじゃない」
「…え」
「だから笑って。僕は君の笑う顔が大好きだから」
カーテンから覗く朝日が、私からチャーリーさんの体温を徐々に奪っていく。
「看病してくれてありがとう、芽衣ちゃん。嬉しかったよ」
その言葉が別れの合図だと知るのに、数秒かかった。
「待って!今日も…また会えるよね?また、マジック見せてくれるよね?」
もうほとんど視えなくなったチャーリーさんに必死の思いで問いかけると、目の前にパッとマーガレットの花が咲き乱れた。
「うん、僕はいつでも待ってるよ」
気づいたときには、目の前にはマーガレットの花だけがそこに残されていた。
「ねぇ、芽衣ちゃん」
目の前で小さな寝息を立てる彼女は、僕の手を握りしめて離そうとしない。そこにある手は、昔とは違う。小さくて何もできなかったあの頃の手より、随分たくましくなった。
「覚えてるかな、君がうんと小さな頃。今の僕みたいに熱を出してさ」
夜になると、まだ生まれたばかりの君の妹に両親がつきっきりになってしまって、心ぼそさに一人で声を殺して泣いていた、あの小さな小さな女の子。
「僕が泣かないでって言っても君は泣き止んでくれないから、すごく困ったんだよ」
変な顔をしてみたり、面白い話をしたり。他の仲間も呼んで、なんとか君を笑わせようと、必死になっていたっけ。
「なのに君は、こんなにも強くなったんだね」
あの頃は、まさか僕が君に助けられるなんて思ってもいなかった。
「君は僕が思っていたよりもずっと、大人になったんだね」
嬉しいはずなのに、その言葉を呟いた途端に、何故だか急に寂しさに襲われる。
「もう…君は僕なしでも生きていけるのかな」
本当は、離れたくない。この手を、離したくない。
「大好きだよ、芽衣ちゃん。10年前も、今も、100年後だって、ずっと。僕は君が大好きだよ」
そう言って、僕は眠った君の額に触れるだけの愛を落とした。
←