ほら、笑ってよ芽衣ちゃん(チャリ芽衣)
―――――芽衣ちゃん。
ぐわん、とひどく懐かしい声が頭に響く。
どこかで聞いたことのある穏やかな声。
思い出そうとしてみるけれど、あと一歩のところで届かない。
―――――泣かないでよ、芽衣ちゃん。
何を言っているの…?私は、泣いてなんかいない。
泣いてなどいないはずなのに、何故かその言葉を聞いた途端に、心がきゅうっと切なくなる。
どうして、だろう。どうして私はこんな気持ちになるのだろう。
―――――笑ってよ、芽衣ちゃん。
ぽつりと頬を伝った涙。同時に、ふんわりとした温もりが私の濡れた頬を優しく撫でた。
ピピピピッ
「……んっ」
朝を知らせるいつものアラームの音がして、私は右腕だけ頭上へ持ち上げる。
ピピピピッ
「わかったって…今起きるってば」
バンッと目覚まし時計の突起部分を軽く押せば、刹那に部屋が静寂に包まれる。
まだ気怠い身体を無理やり起こすと、大きな欠伸がためらうことなく飛び出してきて、私は心の中で苦笑いした。
けれど妙にリアルだったあの夢を思い出して、私はぼんやりと部屋の窓に目を向ける。
もう、何度目だろう。
私は、何度この夢を見たのだろう。
夢の中の私は、“芽衣ちゃん”と呼ぶ声の主を知らないけれど。
今ここに存在している私は、知っている。
忘れるわけがない。忘れられるわけがない。
「戻って来てよ、チャーリーさん…」
いつか。
あの時のように飄々(ひょうひょう)と窓から現れるんじゃないか。
そう思って、この夢を見る度に窓の外を除いてみるけれど、やっぱり彼の姿はなくて。
もっとも、日が出た今の時間帯じゃいなくても仕方ない。
それに…私にはもう
物ノ怪を見る力など残ってはいないから―――
機械的に食べる朝食に、味なんてなくて。
食べることがあんなに大好きだったのに、一人で現代へ帰って来てからは、料理の味なんてわからない。
美味しい、ってなんだっけ。
それでも、美味しい?と聞かれたら「うん、美味しい」と言って笑わないといけない。
けれどきっと、上手く笑えていないんだろうな。
笑い方も、忘れちゃったよ。
自分にしか聞こえない声音で「いってきます」と低く呟いて、また私はいつものように学校に行く。
ギィと鳴く今日の扉も、やっぱり重たかった。
学校でも、私はボーっとすることが多くなった。
気がつけば、視線は空を彷徨(さまよ)っていて。
話、聞いてるの?と何度も友達に注意されたけど、その癖は直らない。
私自身、直すつもりもないのだけれど。
言ってしまえば、どうでもいいの。
自分のことも、友達のことも、家族のことも。
大切じゃないわけではないのだけれど、私の心にぽっかりと空いてしまったこの穴を埋められなければ、周囲を正しく見回すことも、自分を知ることもできなくて。
だからねえ、早く戻って来てよ。
すぐ追いつくって、言ったじゃない。
いつもと変わらない、あのうさんくさい笑顔で。
なのに…
私を明治へ飛ばしたあの月は、オレンジ色に染まり始めた雲にすっぽりと隠されていた。
すっかり遅くなってしまった学校の帰り道。
私はふと立ち止まり、空を見上げた。
すると、隠されていたはずの月は、もうすっかりと姿を現していて。
「赤い…満月」
夜空にぽっかりと、それでいて妖しく光る満月は、あれから1ヶ月の月日が経ったことを私に知らせてくれた。
最初はただの危ない人だと思ってた。
片眼鏡に燕尾服のふざけた格好で、意図の読めない笑顔をつくって。
嘘か本当かわからないことばかり口にして。
でも、いつの間にか、彼の存在は私の中で大きくなっていて。
一日の半分しか一緒にいられなくったって、私は…
「チャーリーさんが、好きなの…!」
喉が焼けるように熱い。
もう涙なんて枯れるほど流したはずなのに、まだかまだかと出番を欲する。
「お願い…チャーリーさん」
また、何事もなかったように、出てきてよ。
じゃないと、私は―――――
視界がぼやけてきた、その時だった。
あの夢と同じ、ふんわりとした優しい温もりがすうっと私の頬を撫でていた。
「泣かないでよ、芽衣ちゃん」
その、声を
「笑ってよ、芽衣ちゃん」
私は、ずっと―――――
気付けば、私は懐かしい匂いに包まれていた。
私の大好きな、チャーリーさんの匂い。
ずっと、ずっと、ずっと。
会いたかった。
「チャーリー…さん…っっ!」
会ったら言いたいことが山ほどあったはずなのに。
私はただ、チャーリーさんの胸にしがみついて、子供のように泣きじゃくることしかできなかった。
そんな私の頭を、チャーリーさんはぽんぽんと優しく撫でてくれた。
「遅くなって、ごめんね」
まるで小さな子を宥(なだ)めるような、優しすぎる声色だった。
「…謝ったって、許さないんだから」
私が今までどんな気持ちでいたかなんて、きっとチャーリさんにはわからないでしょう?毎日に、色がなくて。
モノクロの世界で、私はただ、独りぼっちだった。
こんなことなら、現代に帰ってくるんじゃなかった。
何度、そう後悔したと思っているんだろう。
「ごめんね、思ったよりこっちに来るのが手間取ったんだ」
許さない。もう一度そう答えたかったけれど、私の身体の方が正直で、もういいから、とでも言わんばかりに、無意識に両手がチャーリーさんの首をするりと包む。
背伸びをしても、チャーリーさんの身長には届かないけれど。
それでも、少しでもチャーリーさんとの距離を縮めたかった。
「会いたかったよ、芽衣ちゃん」
彼は私の心の声が聞こえているかのようにそう言って、ぎゅうっときつく抱きしめ返してくれた。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
言葉にならないこの思いは、私の胸をぐるぐるとかき回した。
「これからもずっと、私のそばにいて…」
最後の方は、涙が邪魔して上手く言葉にならなかった。
「もちろん、約束する。僕はずっと、君を見守っているよ」
瞼に落とされる優しいキス。
頬を伝っていた涙も、まるで割れ物を扱うかのように丁寧に吸い取られる。
「大好きだよ、芽衣ちゃん」
ひゅうっと柔らかな風が吹いたのと同時に、私たちはどちらからともなく唇を重ねた。
―――――どうしたの、芽衣ちゃん。
学校でね、みんなのことを友達に話したの。そうしたら、芽衣は化け物だって言われたの。ねえ、私は化け物なの?私はおかしいの?
―――――違うよ、芽衣ちゃん。君は化け物なんかじゃない。だから、泣かないで。
でも、みんな芽衣が化け物だって言って、遊んでくれないの。
―――――じゃあ、僕と遊ぼうよ。
え…?
―――――いくよ。よく見ててね。
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ほら、笑ってよ芽衣ちゃん
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