三角関係(森邸組)
この状況は一体何なのだろう。
なにがどうしてこうなってしまったのか。
朝は二人とも普通だったはずなんだけどなあ…。
芽衣は両手に痛すぎるほどの温もりを感じながら、はあ、と深いため息をついた。
「春草…ここの家主は僕なのだ。その手をどけてくれないかい」
「いいえ、どけません。鴎外さんこそ、たまには俺に譲ってくれてもいいと思いますが」
譲るって、私は玩具じゃないんだけど。
そろそろ腕や脇が痛くなってきた。なんだかちぎれそう。
「あのぉ…いつまでこうしてるつもりですか?私お腹減ってきたんですけど…」
そう言い終わるか終わらないかの良いタイミングで、芽衣のお腹はぐぅ〜、と勢いよく鳴った。
さきほどから芽衣が何を言っても二人の耳に届いていなかったが、この爆音にはさすがに気付いたようだ。
睨み合っていた二人の視線が瞬時に切り替わって、芽衣に注がれる。
鴎外は片手をしっかりと芽衣の手に絡めつつ、ふむ…と首を傾げた。
「そうだな…そう言われれば、僕もお腹が減ってきた」
「同感です」
即座に春草も反応する。
やがて鴎外が閃いたように、そうだ、と声を出した。
「今日の夕餉は牛鍋にしようではないか、子リスちゃん」
「牛っ!?」
大好物の肉の名前を聞いて、芽衣は勢いよく乗り出す。
なんだか余計にお腹が減った気がした。
「鴎外さん…もしかして牛でこの子を釣ろうとしてます…?」
春草は冷ややかに鴎外を一瞥したが、それとは対照的に当の家主はニコニコと上機嫌に笑うだけだ。
その反応だけで、春草の考えが合っているとうかがえた。
芽衣も芽衣で、もう目が牛になっている。
今度は春草がはあ、と深いため息をつくのだった。
やっとご飯が食べられると思いきや、目の前で二切れの牛肉が浮いたまま、芽衣はそれを食べることができないでいた。
「ほら、芽衣。あーん、だ」
「君はこっちだよ、ほら、早く口開けなよ」
なにこれ。
二人の意味不明な戦いはどうやらまだ続いていたようで。
芽衣は自分で牛肉を取ることは許されず、かと言って二人の差し出すどちらの牛肉にも口をつけることができないでいた。
そんな間にも、食欲は湧くばかり。
再び豪快な腹の虫が鳴る。
「ほら、どうした。食べないのかい」
「早く食べないと冷めるよ」
いやいやいや。
誰のせいで食べられないと思ってるんですか。
「あの、私のことはいいんで、二人とも食べたらどうですか」
二人が食べているその隙に、自分も肉を食べようと思ったのだが、それはあっさり否定されることになる。
「僕のことはいい。それよりも子リスちゃんの肉を頬張る姿が見たいのだ。さあ!」
「俺のことはいいから。ほら、腹が減ってるんだろ、早く食べなよ」
ずいっと牛肉達が前に出る。
芽衣はごくりと唾を呑んだ。
…もう、どうにでもなれ!
芽衣は鴎外の差し出す牛肉にかぶりついたかと思うと、目にも止まらぬ速さで瞬時に春草の肉も口に運んだ。
やっとの思いで食べれた肉。
ちょっぴり冷めていたけれど、やはりいろはの牛肉は極上だ。
一瞬で頬がとろけてしまった。
「はあ…美味しい…」
一人牛肉の味に浸っていた芽衣だったが、鴎外と春草はなんだか納得がいかないようだ。
「まさか春草の肉も同時に食べるとは…」
「まさか鴎外さんの肉も同時に食べるなんて…」
とは言っても、だ。
食に貪欲な芽衣がしそうなことではある。
二人が呆然としている中で、芽衣は次々と自分の箸で肉を取って食べていた。
しばらくして、鴎外が深刻な顔つきで芽衣の名を呼ぶ。
「この際なのだからはっきりしようではないか…。芽衣、君は一体僕と春草、どちらを好いているんだい?」
あまりに唐突な問いに、芽衣は掴んだ牛肉をぽろっと鍋の中に落としてしまう。
「…は?」
わけがわからないという風に二人を交互に見やってみるが、どちらも真剣な顔付で芽衣を見つめるだけだった。
「ねぇ、どっちなの」
ぽかんとする芽衣に、春草が苛立ちながら言葉をかけてくる。
何とも言えぬ空気で、芽衣は名残惜しそうに箸を置くと、小さな深呼吸をした。
「私は…」
二人が身を乗り出す気配がして、一瞬芽衣は体を仰け反らせたが、口を閉ざすことはしなかった。
「私は、鴎外さんも春草さんも…どちらのことも大好きです」
どうやらそれは期待していた答えではなかったらしく、二人とも驚いた表情を見せた。
「記憶を失ったどこぞの娘に、こんなによくしてもらって。私、家族のことも友達のことも覚えてないですけど、全然寂しくないんです。二人が、いてくれるから」
数秒の間、ぐつぐつと、鍋が煮える音だけが部屋に響いていた。
「そうか…引き分けだなあ、春草」
「そうですね、残念ながら」
二人同時にふう、とため息をついたかと思えば、次の瞬間には二人とも穏やかな笑みを浮かべた。
「子リスちゃんのそういうところも、好きだよ」
「君のそういうところも、好きだよ」
あまりにぴったりと二人の言葉が重なったせいで、芽衣は照れるよりも何故だかとても可笑しくて、あははと快活に笑った。
「ところで、子リスちゃん。僕にも牛肉を食べさせてくれるかい」
「そんなに食べさせてほしいなら、俺が食べさせてあげますよ」
「…はあ。春草、お前というやつは何もわかっていない。男同士でそのようなことをしても、何も楽しくないだろう」
「ええ、全く楽しくありません」
こんなやり取りも、一体いつまで見ていられるだろうか。
こんなにぎやかな毎日がずっと続けばいいと思うのと同時に、芽衣は小さな寂しさを感じていた。
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