練り香
※桃や椿の退魔の力について触れている部分がありますが、原作にはないので注意を。
空が茜色に染まる夕刻。
遠くでカラスの鳴き声が聞こえるが、それでもつい一時間ほど前まで凶魔に取りつかれた人間たちと戦っていたのが嘘のような静かさだ。
十兵衛が手当てを終え己の部屋で一息ついていると、静かに障子が動きここが姿を現した。
「十兵衛さま、お怪我の具合はいかがですか?」
不安げにここは十兵衛に近づくと、あぐらをかいて座っている十兵衛の隣に腰をおろす。
新しく巻いた腕の包帯に触れるここの手に己の手を重ねると十兵衛は、
「このくらい大丈夫だ」
と安心させるようにほほ笑んだ。
実際包帯が巻いてあるものの、それほど深くひどい傷というわけでもない。
「そうですか」
ここはほっと胸を撫ぜおろす。
毎日のように繰り返される戦に慣れてはいるのだが、それでも十兵衛が傷つくのは耐えかねるのだろう。
十兵衛はここのその思いに胸が温かくなる。
しばらく黙り合っていたが、ここが十兵衛の所に来たもう一つの用を思い出し巫女装束の胸もとに細い手を入れた。
何かと驚いている十兵衛の前で、白い生地にカゴメ紋が縫われた巾着袋を引き出す。
「十兵衛さま、これを」
巾着袋から漆の小物入れを出すと、ここはそれを十兵衛に差し出した。
何かと思いながら十兵衛はそれを受け取るとそっと蓋を開ける。同時に、涼やかな香りがそこから部屋に広がった。
「これは香か?」
小物入れの中には黒く小さな丸い粒が敷き詰めるようにいくつも入っている。それは沈香などの粉末と保香剤としての貝の粉末を蜜などで練り合わせた練香であった。
ここは十兵衛の問いに頷くと、
「十兵衛さまのご武運を祈りながら、菖蒲を中心に椿や桃を混ぜて作ったのでございます」
この戦国の世では、武士たちは出陣の前にお香を聞いたり、甲冑に焚き込めたりして、心を鎮め精神統一を図っていた。
また香には邪気を祓う力もあり、低級凶魔には効果があるため十兵衛も利用していた。
菖蒲は尚武にかけたものであり、他の武士たちも好んで使っている香である。
また椿と桃は神木でもあり共に魔を祓い清める力が強く、特に桃は木の立っている周辺に並みの凶魔は近づけぬほどである。
しかしその三種類の花はどれも香りが強く、たいていの人には合わせて作っても効果がなくなってしまう。
それをここまで清らかな香りにまとめあげるとは……と十兵衛は声に出さす感心する。
「十兵衛さま……これを使ってはくれませぬか?」
震える声で上目遣いに尋ねるここ。
十兵衛はここの中にある不安を取りはらうように力強く頷く。
「もちろんだ、ここ殿」
それを聞いたここは花が咲いたように明るい表情になる。
「一つ焚いてもかまわないか?」
「はい」
十兵衛が一粒手に取り尋ねると、ここは嬉しそうに笑う。
部屋の隅の机に置いてある香炉に近づくと、十兵衛は手に取った一粒を中に入れ、廊下を照らしている蝋燭から火を取りつける。
じわじわとだが、澄み切った匂いが部屋を満たしていく。
十兵衛がここの隣に再び座ると、ここは十兵衛にもたれかかった。
「……十兵衛さま」
ここの膝におかれた手を十兵衛が握ると、甘い声でここは身じろぐ。
「ここ殿」
そこから先に言葉はなかった。
ただ二人は寄り添いあい、香の匂いで満たされた部屋で目を瞑り互いを感じてきた。
作成20110519
1310字
[ fin ]