裏切りは今日も僕の名を呼ぶ
「ヤコウ、今すぐ部屋に来い」
電伝虫から、底冷えするような絶対零度の音声がメイド室へと響き渡る。俺の隣に座って寛いでいたメイドは「ひ、」と小さく声を上げ、俺が怒られると思ったらしい向かいの執事は同情するような視線を寄越した。
皆からの無言の励ましを背に、メイド室を足早に後にする。
でも俺は、知っている。
こんな声を出している彼の、サングラスの奥のその目はひどく怯えた子供のようになっていることを。
「若様、参りました」
控えめにノックをするが、返事はない。失礼いたします、と念のため一言置いてから重いドアを静かに開けると、机に投げ出した長い足が見えた。新聞で顔が覆われているのでその表情は見えない。
「若様、御用は」
「……」
「怖い夢でも見ましたか?」
「……フッフッフッ、そんな餓鬼じゃあねえよ」
新聞をばさりと手で払いのけた若様が、ようやくこちらを向いた。サングラスを掛けていないその顔は、いつもより幾分か幼く見える。
「ヤコウ、こっちに来い」
「かしこまりました」
扉を閉めて、若様が寝そべるソファへと移動する。失礼します、そう一言断ってソファの前に静かに膝を付いた。
「ヤコウ、おれにさわれ」
「お望みとあらば」
にこりと微笑みかけると、若様は目を閉じる。その無防備な彼のふわふわの髪の毛をそっと指先で梳いてゆく。まるで飴細工を扱うようだな、と以前若様に笑われたことがある。飴細工のように繊細で、壊れてしまいそうな若様。
彫刻のように調った輪郭を指先で慎重になぞっていく。長いまつげにそっと触れると、体が小さく震えたような気がした。
「ヤコウ。お前だけは、おれを裏切るなよ」
若様の、かすれた声で紡がれるこの願い事を聞くたびに、俺は本当に、本当に悲しい気持ちになる。この命令だけは、従うことが出来ないからだ。
若様、俺はあなたを殺すためにここにいる。ロシナンテ中佐の遺志を継ぎ、あなたをこの地位から引き摺りおろすために、あなたに傅き、あなたに愛を囁く。
あなたを欺くために、海軍本部の一兵卒はつまらない戦で「名誉の死」を遂げ、顔を変え声帯も指紋も変え、戸籍を買いヤコウというドレスローザ付きの執事になったのだ。
あなたの目に映るものは、何一つ本当の私ではない。
なのにあなたは忠誠を、愛を誓わせようとするので俺は本当に悲しくなる。
「なあ、ヤコウ」
もう一度、強請るような声を出す若様の声が瞳が、不安で揺れている。
俺はうっそりと笑って「若様、愛しています」と耳元で囁いた。