ゴキィ、と嫌な音がした。
俺は頭に血がのぼっていて、人間ってのが簡単に壊れちまうんだってことをすっかり忘れていた。それがたとえノミ蟲野郎であっても。
今まで降り続いていた雨が急に冷たく感じられて俺は白い息を吐いた。目の前に横たわる黒い塊から鮮やかな赤がじわじわと広がっていた。握っていた標識は歪んでいてその端に同じ赤がついていた。気持ちが悪くなってそれを地面に叩き付ける。
「臨也!」
ヒールの音が響かないほどの雨に波江さんが足を取られそうになりながら臨也の元へ倒れるように駆け寄った。奴の頭を抱き上げて必死に名前を呼んだ。波江さん、いつからアンタはそんなになっちまったんすか。この前まで手負いの獣みたいで、世の中全てを敵だと思ってて、誰より綺麗で独りだったのに。いつの間にノミ蟲の隣なんかに落ち着いちまったんすか。
「臨也」
「……ごほっ」
「ちょっと、大丈夫なの」
「大丈夫、と…言いたいとこ、だけど…肋骨が…いってる…」
「病院…は無理ね。私が帰って手当てするわ」
「はは…心、強…」
護るものが出来ると。
人間は強くなり、同時に弱くもなる。今日の臨也は格段に弱かった。波江さんばかりを心配していた。だからこんなにも簡単に仕留められたんだ。俺は確かに戦いに勝ったはずなのに戦争に負けた。「欲しかったもの」は手に入らなかった。「欲しかったもの」は最初から俺のものにはなり得ないものだったんだ。もし今この状況で俺が波江さんを攫って逃げたなら、きっとこの人は俺の首根っこに噛みついてでも逃げただろう。そういうことだ。
それでも、俺は波江さんが欲しかった。
波江さんが臨也を抱えて立とうとして転んだ。バシャッと水が跳ねて波江さんの顔に泥が飛ぶ。髪の毛が貼り付いて鬱陶しそうだ。臨也はもう完全に気を失ったのか、ぴくりとも動かない。
俺は波江さんの背後に近寄って、そのまま二人とも抱え上げた。「きゃ、」と小さな悲鳴が上がる。
「新宿の事務所だろ」
「…え、ええ…」
「じゃあ、しっかりこいつ押さえとけ」
波江さんを支えて新宿まで獣みたいに走った。雨に濡れても波江さんの身体は温かい。その一瞬でも俺は彼女を手に入れたような気がしていた。
新宿に着いて
波江さんは手際よく臨也の手当てをした。それが終わって二階から降りてきた波江さんはまっすぐ俺の所にやって来た。
「…脱ぎなさい」
「え?」
「血、酷いわ」
幽から貰ったワイシャツは血まみれで、俺は素直にそれを脱いだ。代わりに頭にタオルを載せられる。彼女は一言「拭いて」と言った。ワイシャツを持って歩いて行く波江さんの後ろ姿を見つめていたら何だか酷く切なくなって思わず彼女を呼び止める。
「波江さん」
「…なに」
「何でも、無いっす…」
「そう」
ノミ蟲の秘書だかに成り下がっちまった波江さんはそれでも美しくて、ああやっぱり俺はこの人が欲しいと思ってしまった。
(戦線始動)
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書き始めた時は静ちゃん優位な話にしようといつも思ってるんですが…ね。
title:ごめんねママ