矢霧波江という人間におおよそ、感情というものは存在しない。
それが、まだ彼女を理解していない時のイメージだった。弟に関連しない場面では笑うことも怒ることも泣くことも決して無いと、思っていたのだ。

夏の終わりを告げる雨はしとしとと新宿の街を濡らしていた。傘を持たずに出てきた俺は、フードで雨を凌ぎながら事務所に帰ってきた。玄関には底の低い波江の靴だけがきちんと揃えて置かれている。

「ただいまぁ」

気の抜けた声で言うが、返事は無い。部屋に入ると、波江のデスクは空っぽだった。マグカップに入った紅茶はもう冷たくなっていて、何かあったのかと俺は思わず辺りを見回す。ソファの横、ガラステーブルの近くに波江が小さくなって座り込んでいた。呼吸の音も何も聴こえない。初めは驚いたがまるで波江が反応を示さないので、近付いてみた。彼女は静かに涙を流していた。

「なんだ、居るんなら返事してよ波江さん。粟楠会かどっかに連れ去られたかと思うじゃない」

波江の目線はずっと窓の外を向いている。ここからでも分かるほど雨が強くなって来ていた。

「床に座ってて冷えない?」

波江は黙ったまま頷いた。初めて反応を返されて、どうやら反抗するつもりは無いのだろうと感じ、隣に腰を下ろす。
どっかのテレビで誰かが言っていた。女ってのは放っておいても精神が不安定になることがある。だから優しくすべきだと。まるでエゴだとも思うが、不思議とそんな気持ちにはならなかった。
蹲ってぴたりと身体の右側を波江にくっつける。濡れて帰って来たのは俺の方なのに、半身がひやりとした。いつから波江はここに座っているのだろう。

「ねえ、波江さん」

名前を呼んだ。ほんの少し顔を上げた気配がする。俺は腕を伸ばして、華奢な身体を閉じ込めた。

「何で泣いてるの」
「…わからないわ」
「……」
「でも、すごく哀しい」

波江は身体を震わせながら静かに涙を流す。理由はわからないけれど、俺はこうしなきゃいけないんだと思った。無音のまま雨は降り続けている。何故だか早くやめば良いのにと、そればかり考えていた。


(雨が晴れたらきみは来ない)


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