ぼくとわたしとあなたの日々

君に会えるまで後少し

「受け取れ」
 役員区画の廊下のド真ん中で、ふと唐突に呼び止められる。声の主は他でもない、同期でありかつてのパートナーでもあった雨宮ツバキだ。白くも扇情的なデザインをした教官服に身を包み、見ているこちらが背筋を伸ばさざるを得ない、そんな雰囲気を纏っている。
 彼女が僕にずい、と差し出したのは、手のひらを少しはみ出すサイズの、長方形の箱だった。牛革を淡い水色に染めて造られたらしい一目で高級な品だとわかるそれは、受け取り手のことを第一に考えるツバキの慈愛の心が見て取れて、少し胸が暖かくなる。
 彼女の意のままにそれを受け取り、視線に促されるようにして小箱を開いた。中から現れたのは、今までとんと縁がなかったメガネである。スクエアタイプのチタンフレームはオーソドックスな黒で、掛ける人間を選ばないだろうことがわかった。これなら確かに自分でも掛けられるかもしれないが、前述の通りメガネには世話になったことがないし、矯正が必要なほど視力の低下は見られない。彼女の意図は計りかねる。
「安心しろ、度は入ってない」
「そうなの?」
「そうだ。……これからの職務に必要だろうと思ってな」
 ――これから。
 僕はつい先日、任期の満了と実績を認められて神機使いを退役することになった。命を落とすことなく引退を果たす、それは神機使いとしてこの上ない名誉であることだろう。救えぬ命を幾つも見てきた。終わる生を何度も見送った。だからこそこの重みを理解しているし、フェンリルからの再就職――教練教官への道も甘んじて受け入れたのである。
 そして、これは僕だけの問題ではなかったのだろうとも思う。ツバキにとっても同じなのだ。あえなく散る戦友の姿を見送り、彼らの死を誰よりも悼み続けた彼女だからこそ、僕の退役を自分のことのように喜んでくれているのではないかと。思い上がりかもしれないし、彼女は心中を隠すのが上手い。けれども僕には確信がある。彼女と長い時を過ごし、共に戦った戦友であるからこその自負だ。
「ナメられ顔な同期への、私からの餞別だな」
 艶やかな唇を綻ばせるツバキは、下心なくとも至極美しい。かつてはそれを愛おしく思っていたことも嘘ではなく、在りし日を思い返して胸の奥が小さく痛んだ。
 彼女の許可を取り、早速この餞を纏ってみる。視界の狭まる心地はあるが、それにもじき慣れるだろうか。これを掛ければ、少しは教官らしく後輩を導いていけるだろうか。不安は尽きないけれども、彼女の想いが傍にあるなら、それも乗り越えられる気がする。
「……ほんっと、君には敵わないよね」
 僕の言葉が届いたのか否か、ツバキの顔が訝しむように歪む。なんでもないよ、と返せば彼女は手元のタブレットに向き直り、何かを思い出したかのように小さくつぶやいた。
「そういえば、先日今期の招聘が行われたんだったな。早ければ明日にでもおまえの担当になる神機使いが来るはずだ」
「ずいぶん急だね」
「それは今更だな。確か……あぁそうだ、この少女だ」
 彼女の隣に立ち、タブレットを覗き込んでデータを拝見する。淡い桃色の髪や見るからに少女然とした微笑みは、お世辞にもこの仕事に向いているとは思えなかった。先が思いやられる、無意識に口をついて出ていたのだろうか。目の前から唐突に消えたタブレットを、ゴツンとつむじに一発食らった。しかも角で。
「もう少しシャンとしろ、教官が新人の不安を煽ってどうする」
「そうは言っても……僕だって新人教官だろ……?」
「新人、か。指導が厳しすぎて後輩を何人も泣かせた鬼がよく言う」
 人聞きの悪いことを言わないでほしい。僕たちはアラガミと生死のやり取りをしているのだから、指導が厳しくなるのは当然だ。先輩としてベテランとして、僕たちには彼らを生かす義務があるし、人間に扱かれるのとアラガミに殺されるのを同列に考えでもしているのか。泣いたって何も変わらないしちょっと厳しくされたくらいで、人間死にはしないものだ。
 僕の内心の恨み言を感じ取ったのか、ツバキはどこか愉快そうにくつくつと笑った。そして僕に向き直り、目を合わせて言うのだ。
「おまえなら出来るさ。少なくとも、私はそう信じているぞ」
 僕を何度も奮い立たせた、何よりも堅く、強固な信頼の言葉を。

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