君の背中を引き裂いて
「あれ……リナリアじゃん。どうかしたの?」
にわかに聞こえた、わたしを呼ぶ声。その優しくも独特な雰囲気に、下に向いて落ち込んでいた気持ちを一気に引き戻されるような感覚に陥った。
背後からかけられた声は、変声期を済ませたばかりの少年が持つ特有の空気を湛えている。騒がしさや嫌味ったらしさもない穏やかなそれが、どこかあどけない空気すらまとってわたしの意識を引っ張り、自然と体を振り返らせた。
「あ――うそ、マサル……?」
そこにいたのはマサルだ。
彼はマリィと同じく同期の一人であるけれど、今までこうして二人きりで話をしたことなどはなかった。マリィやホップなども交えて複数人で話すことはあったものの、一対一で話すのは本当に今日が初めてだ。
他人ではないが、仲良しでもない。この唐突なバッティングは、わたしの足元からざわりと黒いものをはい上がらせる。
ちいさく首を傾げるマサルを前に、わたしは見開いたままだった瞳をなんどか瞬かせ、絞り出すように言葉を次ぐ。
「あ……ええと、その。……なぁに? わたし、何かしちゃってたかな」
「べつに何もないけど……ただ、なんとなく気になってさ。こんなところで俯いたりして、どうしたのかなって」
「うっ……そ、それは――」
途端に言葉を詰まらせるわたしのことを、きっと、マサルは訝しんだはずだ。
ここはエンジンスタジアム前……から、少し離れた路地である。スタジアムのすぐ近くよりはいささか静かで、人気はない。一応人目は避けられる場所にいたつもりだったけれど、それが杜撰であったことは、こうして呆気なく見つかってしまった今が何よりも強く証明している。
ジムチャレンジに熱狂する人々とは打って変わって沈んでいるこのわたしは、確かにマサルの言うとおり周囲から浮いてしまっているだろう。
……別に、見つかったことを恥ずかしく思ったりはしない。ただ、ほんの少しみっともないだけで。
「リナリア……?」
気遣うようなマサルの声が、今は少しだけ、鈍く痛む。
どうしてわたしがこんなにも凹んでいるのかと言われたら、他でもないマリィのジムチャレンジを見に行っていたからである。相手はヤローさんでもルリナさんでもなく、ジムチャレンジ最初の鬼門と言われるエンジンシティのカブさんだ。
しかしマリィは、いとも簡単にカブさんのジムチャレンジをクリアしていた。否、もしかすると彼女なりに苦戦はしていたのかもしれないが、わたしの目にはひどく容易いように映ったのだ。彼女自身があまり顔に出ない質なのもあり、その振る舞いは非常に堂々として、眩かった。
かたやわたしはヤローさんとルリナさんを倒すのにも非常に時間がかかってしまい、つい先ほどこの街に着いたばかり。エンジンシティの看板に胸をなでおろし、休憩がてらポケモンセンターを訪問して、ちょうどひと息ついた頃にマリィのジムチャレンジの話を聞いたのだ。
――今もマリィは頑張ってるんだ! さっきまでの疲れはどこへやら、わたしの胸は期待と興味で目いっぱいに弾む。もつれる足をなんとか動かして、必死でスタジアムの観客席へ滑り込んだ。観客席から見下ろすスタジアムはコートに立っているときよりも狭く感じて、今度はわたしもこの場に立つのだと、眼前の光景を浴びながらわたしは奮い立っていた。
しかし、そうして観戦した友人のジムチャレンジはわたしの想像より何倍も白熱していて――そして、わたしの胸に灯っていた炎を一気に燻らせてしまった。
新進気鋭のトレーナーとして輝く友人のすがたは、その背中を誇らしく思わせると同時に、わたしの奥に潜む劣等感をこれでもかと刺激したのだ。羨ましくて、妬ましくて、苦しくて、情けなくて。彼女の努力を、その成果を心から喜べないことへの自己嫌悪も相まって、わたしの気分はもはや最低値にまで下がってしまっていた。
(――やっぱり、マリィはすごいな。可愛くて、バトルも強くて、もう既にエール団なんていう応援団までいて……わたしなんかとは、比べ物にならない)
あの瞬間、わたしは自分とマリィの間にある越えられない壁を思い切り叩きつけられた。もはや「悔しい」と思うことすらおこがましいと感じてしまうほどの、圧倒的な痛みによって。
――おこがましい、だろうか。不足している才能を嘆き、補うための努力すらせず、ただひたすらできない自分を蔑んでは抱きしめていただけのわたしには、誰かを羨み、悔しがることすら過ぎた感情なのだろうか。
わたしには――何かを悔しがる資格なんて、本当はいっさいないのではないか。
マリィのことが大好きな気持ちは変わらないのに、その思いと比例するようにしてこの胸にはどす黒いものが溜まっていく。近ければ近いほど、好きであればあるほどに、わたしの胸はどんどん濁り、浅ましく、妬ましく、際限なく汚れていった。
ああ、もしかするとこれこそが自分の本当のすがたなのではないかと。汚れていく自分にある種の安心感すら覚えながら、わたしは黒ずんでいく自分の心を、どこか客観的に眺めていた。
けれど、その歪みを悟られるわけにはいかない。マサルには――マサルたち「勝ち組」の人間にだけは、このどうしようもないヘドロのような感情を知られてはいけないのだ。
彼らからもたらされる慰めも、施しも、それらを素直に受け取れない惨めな自分がいることを知っているから。
わたしは一瞬だけマサルから目を逸らし、心の奥にあるスイッチを切り替える。軋みながらも確かに動くそれは、マリィを筆頭に同期の人々、家族、その他色んな人間もと話すうちに身についた処世術のようなものだ。
こうすれば……これを使って気分をあげれば、それなりに明るい笑顔をつくれる。だれも不快にならないような、比較的人好きのする自分を演じることができる。
別れたあとの疲労は普段の比ではないが、むやみやたらに誰かを不快にさせるよりは何倍もマシだ。
「じ、じつはその……えへへ、ちょっと人酔いしちゃってさあ」
いきなり快活に話し始めたわたしのことを、マサルが怪訝そうな目で見る。……気づかないでほしい、というわたしの願いは、彼の胸には届いただろうか。
「ほら、わたしターフタウンの出身だからさ、さすがにエンジンシティの人混みとか、賑わいとか、ちょっとキツくて」
「そうなの?」
「あーあ、田舎者って思われるから知られたくなかったのになあ。マサルったら意地悪なんだから! その辺ちゃんと察してよねー」
「察してって……そもそもぼく、リナリアのことほとんど知らないし」
「あはは、確かに。……でも、声かけてくれて嬉しかったよ。ありがとね、じゃあまた!」
半ば無理やり話を切って、わたしはマサルに背を向ける。都合良く目の前に止まったそらとぶタクシーの運転手さんに話しかけ、適当な行き先を告げてさっさと飛びたってもらった。
早くこの場を離れたかった。どうにかして、一刻も早く、マサルのそばを離れてしまいたかったのだ。どうしてこんなところにいるんだろうとか、何をやっているんだとか……疑問に思うことはたくさんあったけれど、訊ねてしまえる余裕はなかった。
ただ、どれだけ高く舞い上がってもなお、じっと背中に突き刺さっていたマサルの視線が痛くて痛くて――結局この日は、夜になってもずっと痛みが消えなかった。
冷たい枕を抱いて眠りにつくまで、ずっと。
◇◇◇
まばたきの刹那を縫って、わたしの意識は再び現在へと帰ってくる。
あの日と同じように目の前に立つマサルは、しかし当時の刺さるようなそれとは打って変わった、悼むような表情を浮かべていた。
「少なくとも、ぼくは……ぼくだけは、きみのことを責めたりしない」
やがて、その瞳はひどく真摯でまっすぐなものへと変わる。刺さるほど鋭くはないが確固たる芯のあるそれは、俯いてばかり、逃げてばかりのわたしにとってはやはりどこか恐ろしいものだ。
何故こうして恐ろしく見えるのかと言われたら、これがわたしのような人間に向けられるべき目ではないと思っているせいだろう。……居心地の悪さは最高潮。すぐに目をそらしたくなるが、なぜだかそれも叶わない。まるでかげふみでもされているかのように、わたしは視線のひとつですら自由に動かすことができなかった。
今のわたしにできたことは、ただ喉の奥から漏れ出た「どうして?」というひと言を、音として吐き出すことくらいだった。
わたしの疑問について、マサルはすこし考え込むような素振りを見せる。
「どうして、と聞かれてもな。うまく言葉にできる気はしないけど――」
ほんの一瞬、マサルがわたしから目をそらす。まばたきを数回繰り返す様子により、視線による呪縛がいささかであるが和らいだ。
その隙を縫えば今すぐ逃げられただろうに、どうしてかな、わたしの足は相変わらず動いてくれないようだった。
――理由はわかっている。きっと、彼の言葉に期待しているのだ。「そんなことない」と思う傍らで、「もしかしたら」と浅ましい期待をわたしは抱いてしまっている。
そうやって無駄な期待ばかりを抱いてきたからこそ、何度も何度も打ちのめされて、こんなことになったのに。
「きっと、気になってるんだと思う。同期としても、友だちとしても……それから、一人の女の子としても」
だからこそわたしは、こんなにも卑しい期待を限りなく最良の形ですくい上げてくれたマサルのことを、忘れられなくなってしまったのだ。
2023/02/06 加筆修正
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