HoYoverse

合図

 こん、ここ、こん、こん。独特のリズムで叩かれた窓へ、反射的に飛びついた。薄いガラス板の向こうには見慣れた手袋が覗いていて、張りつめていた精神が一気に緩むのを感じる。
「彼」が訪れてくれた安心感により、ついつい気が抜けてしまったのだろう――シャルロットの口からは、緊迫した状況下にあるとは思えないほど弾んだ声が飛び出てしまった。

「来てくれたのね、ナマエさん……!」

 ――馬鹿野郎! いつもの怒号が窓ガラスを突き破って聞こえてきた気がした。
 実際に彼の喉が音を発することはなかったのだが、くちびるの動きだけでその声をすっかり再生できるほど、彼という人はシャルロットの日常にひどく溶け込んでいるらしい。ごめんなさい、と同じようにくちびるだけで伝えると、ナマエははあ、と気だるげなため息を吐いて窓の鍵をちょいちょいと指差した。
 要望に従って鍵を開け、音を立てないように開く。隔てる壁がなくなった途端に飛んできたのはやさしいデコピンで、思わずきゅっと目を閉じた。

「ったく、何のために俺がこっから声かけにきたと思ってんだよ」
「ご、ごめんなさい……ナマエさんが来てくれたのが嬉しくて、つい」

 素直に気持ちを伝えれば、ナマエは再びおおきなため息を吐いて、その広い手のひらをこちらへと差し伸べてくる。いつもと変わらぬ、絶対的な味方のそれだ。
 
 今日は4月10日、シャルロットの誕生日である――どうしてこのようなめでたい日にこそこそしているのかというと、むしろめでたい日であるからこそと言わざるを得ない。シャルロットの同僚たちが困った方向にやる気を出してしまったようで、彼らの密着取材から逃れるために色々と策を講じていたところなのだ。
 着替えを理由に一時的に撒いたものの、果たしてここからどうすればいいのか――狭い部屋の片隅で頭を抱えていたところに、シャルロットのボディガードであるナマエが現れた。同僚たちに囲まれている最中には知らぬ間に目の前から消えていて、なんて薄情な男だと恨み言を吐きそうになったが……こうしてきちんと戻ってきてくれるあたりはやはり信頼できる人なのだと、あることないこと言いそうになったおのれを恥じた。
 
「下に変装用のコートも用意してあるから、しばらくうろつくぶんには問題ねえはずだ」
「さっすがナマエさん、私の有能なボディガードね――」
「うっせえな、さっさとしろ」

 当たり前のように現れたナマエのおかげですっかり忘れていたが、ここはスチームバード新聞社の三階だ。眼下にはすぼまった薄暗い世界が広がっていて、ひゅう、と無情な風が通り抜けている。 
 どうやらこのルートで脱走を図るらしい。たしかにこのまま部屋を出ていけば再び同僚たちに捕まって大変なことになるだろうし、こちらから出ていくのは得策であるように思える。ナマエが提案してくれたということは、おそらくこれが最善かつ最適なルートであるのだろうから。
 差し伸べてくれた手のひらに応えて、窓からそっと身を乗り出した。高さを忘れるくらいに安定感のある彼のサポートにより、ひとまずは危なげなく建物からの脱出を果たし、パイプを伝って下に降りることができたが――問題は、これから身を隠す場所だ。
 ナマエの用意してくれたコートによりしばらくの目くらましは効くだろうが、そこから先はひどく不明瞭である。こんなとき頼るべき相手は編集長であるユーフラシアか、もしくは――

「一旦ユーフラシアさんのおうちにお邪魔して、そこで手紙を書くわ。そう、例の旅人に! まだフォンテーヌにいるはずだから、きっとなんとかしてくれると思うの……!」

 コートを羽織り、帽子を懐に仕舞い込みながら言うと、ナマエは心得たとでも言いたげにうなずく。有能で敏い彼は、頼まれてほしいことを瞬時に理解してくれたらしい。

「で、俺がその手紙を届ければいいんだな」
「ええ! 話が早くて助かるわ。それじゃ、まずはユーフラシアさんのおうちに急ぎましょう」

 極力人目につかないよう裏路地を抜けながら、シャルロットは進んでゆく。目的地までの道のりは迂回を繰り返すためにひどく時間がかかったが、しかし、一人で行う潜入捜査に比べれば、これくらい造作もないことだ。
 何より、今の彼女にはナマエという強い味方がある。たかが一人、されど一人、護衛がいるだけでこんなにも心強いものなのかと、シャルロットは人知れず、彼の頼もしさを味わっていたのだった。


2024/04/11

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