HoYoverse

そこには波のひとつもなく

 ――夢を見ている。あたしはゆらゆらと揺れる世界でたゆたいながら、ひどく心地よい波に身を任せていた。
 それはきっと、いうなれば羊水のように優しく全身を包み込んで、すべての苦しみからこの身を守ってくれているのだろう。
 苦しみもなければ喜びもなく、いっさいの刺激を与えられない傲慢な慈愛には、我ながらひどく覚えがある。あたたかくも少し怖い――ああ、これはきっと故郷の記憶だ。
 あたしはかつてそれをもたらされる側として生まれ、そして、与える側に作りかえられた。乱暴で冒涜的な母性を無理やりこの身に植えつけられて、ぼんやりとモヤがかった世界のなか、生命のすべてを愛していた。そうして朧げで気が遠くなるほどの月日を過ごし、とうとう終わりの見えない役目から逃げ、おのれの責務も故郷も何もかもを捨て去って、宇宙へと飛び出したのだ。
 ああ、もしかするとこれは警告なのかもしれない。決して忘れるなと魂が騒いでいる。お前はこの柔らかな世界で生きていく資格のない生き物なのだということを、この夢はあたしに突きつけているのだ。


  ◇◇◇
 

 あたしは郷愁と寒気と追懐と憎悪をこの身に感じながら、ひどく重たいまぶたを開く。突如として射し込んできた刺さるような灯りに瞬きを繰り返すと、そこには随分見慣れてきた星穹列車の照明があった。
 何の生気も感情も見られない無機質な照明に、あたしは安心感をおぼえている。ぬくもりなんて程遠い機械にたいして、だ。それはいっさいの親愛もなければおぞましい欲望を孕むこともなくあたしを見てくれるから、時として人間よりも優しく感じてしまうときがあることを、あたしはよく知っている。

(やば……頭痛い、かも)

 鉛のように重たい体をなんとか起こすと、ぐわんと視界がひっくり返る。やがて襲ってきた眩暈と吐き気のせいでベッドから出ることは叶わず、あたしの体はそのままシーツの海へとUターンした。
 今日はあたしが当番の日なのに、このままではみんなの朝ごはんを用意することができない。とはいえこの程度のことで人を呼びつけるのも気が引けるし――そもそもこの時間に誰が起きているのだろうという疑問もあるが――そのうち異変を察した誰かが起こしにきてくれるのを待つのが一番良いのかもしれない。
 そう思って再び目を閉じようとした頃、まるで図ったように部屋の前で止まる足音を察知する。その持ち主は控えめにドアをノックして、静かに声をかけてくれた。

「……ナマエさん、起きているか?」

 ――丹恒くんだ! 思わず飛び起きそうになったが、相変わらずの眩暈があたしの体をシーツへと縛りつけてくれる。
 うう、と呻きまじりにかすれた声で返事をすると、丹恒くんはやはり控えめにドアを開いて入ってきた。
 いつもどおり静かな所作で足を踏み入れてきた丹恒くんだったが、あたしのただならぬ様子を察したのか、その涼やかな目を見開いて小走りに駆け寄ってくる。

「ナマエさん……! どうしたんだ、体調が悪いのか」
「あ、あははぁ……ごめんね? なんか良くない夢見ちゃったみたいでさ、頭痛と眩暈がやばくて、動けないんだよね……」
「待っていろ、今すぐパムを呼んでくるから――」

 そうして身を翻した丹恒くんが不自然につんのめったのを、あたしはぽかんとした顔で見ていた。……珍しく慌てていたようだったし、これまた珍しくつまずいてしまったのだろうか? 足元は適度に片づけていたつもりだったけれど、もしかすると何かしらの小物を放置してしまっていたのかもしれない。
 もっとも、不意をつかれたのは丹恒くんも同じだったようで――彼はあたしの顔を、ひどく怪訝そうな、しかしなんとなく気遣わしげな表情で見てくる。

「ナマエさん……? どうかしたのか?」
「え? ……何が?」
「何が、もなにも……その、」

 言いながら下がる丹恒くんの視線を追うと、そこには丹恒くんの上着を掴んで引き留めているあたしの左手があった。いっさい覚えのないそれに声にならない声をあげて手を離すと、丹恒くんは一瞬名残惜しそうに眉を下げたあと、ちいさく咳払いをする。

「その……ナマエさんの体調に問題がないのなら、もう少しだけここにいるが」
「えっ――」
「必要がないなら出ていく。どうするかは、ナマエさんが決めてくれ」

 かすかに頬を赤らめながら目を逸らしているあたり、おそらく照れているのだろう。普段の落ちついた振る舞いはどこへやら、口調もどことなくたどたどしいし、そのギャップはなんだかひどく愛おしく見える。
 あたしは彼の可愛らしさに一瞬だけ頭痛を忘れ、思わず微笑んでしまった。

「じゃあ――ちょっとだけ、お願いしようかな」

 言いながら、あたしは再び丹恒くんの服を引っ張って、身を横たえているベッドへと誘う。丹恒くんは普段どおり迷うことなくベッドのなかへと入ってきて、まるで寄り添うようにしてあたしの背中をさすってくれた。
 いつもはあたしがそうする側であるせいか、こうして寄り添ってもらうのはなんとなくくすぐったくて、落ちつかない。けれど決して不快ではなくて、むしろ泣きたくなるくらいに心地良かった。
 ――これならばもう、悪夢なんて見ないはずだ。あたしは彼のぬくもりと優しさに浸りながら、穏やかに瞳を閉じたのだった。


#novelmber 28.ゆらゆら
2023/11/26

- ナノ -