HoYoverse

月明の逢瀬

 それはありふれた夜のこと。誰にも悟られないように、リネは極力気配を消してゆっくりと館の中を歩く。
 ただ足音を消して、人の視線をくぐりながら進むだけ――このような小細工などリネットにはお見通しなのだろうが、同じように彼女が厚意で見逃してくれているのだろうことも、リネは十二分に理解していた。しかし、たとえ妹に気を遣わせる羽目になるとしても、リネにはこの歩みを止めることができなかったのだ。
 リネが向かうのはとある一室――最近このブーフ・ド・エテの館に身を寄せるようになった少女、ナマエが過ごす部屋だった。ナマエはもともと「召使」アルレッキーノの元で従者として任務を遂行していたのだが、数ヶ月前に彼女の命によって故郷であるフォンテーヌに帰ってきたのである。
 リネとナマエには、ちょっとした稀有な縁がある。元々彼女は例の貴族の世話になっていたメイド見習いだったのだが、そこから十数年の時を経て、幸か不幸か同じファデュイとして再会を果たしたのだ。「召使」に連なるものとしてこれまでも何度か顔を合わせてはいたのだが、しっかり言葉をかわしたのがつい最近のことであるため、発覚するのは少し遅くなってしまったが。
 今、リネはその縁ある相手の部屋をお忍びで訪問しようとしている。年の近い男と女が、こんな夜中に密室で何をするつもりなのか――彼らの行為を知った人間がいたとしたら、きっと多かれ少なかれ何かしらを勘繰ることだろう。しかし二人の間柄は恋人だなんて甘ったるくも幻想的なものではないし、そもそも彼女にその気がないことをリネは深く理解している。
 何も起こらないわけがないと疑われがちな行動であるが、実際はその逆、「何かが起こるわけがない」のだ。
 そうこうしている間にナマエの部屋までたどり着いたリネは、ゆっくりと二回のノックをする。やがて返ってくる凛とした声に許可を得て、一度周りに目を配らせてから、滑るように入り込んだ。

「こんばんは、リネくん。そろそろ来る頃合いかなと思っていたよ」

 ほんの少し芝居がかったような――かの「召使」を思わせる口調とともに、ナマエはゆっくりと椅子から立ち上がってリネのほうへと向き直る。月光に照らされたうなじは神秘をよぎらせるほどに蠱惑的で、一瞬眩暈がしそうになった。

「ごめん……本当は、こんなにも君の手を煩わせるつもりなんかなかったんだけど」
「とんでもない。むしろ私は嬉しいんだ、リネくんが私を頼ってくれることが。……君は強がりで、どうにも頑固なようだからね」

 言いながら、彼女はきっちりとまとめていた髪を静かに解いていく。指先からこぼれ落ちるクールグレーの髪はきらきらと月明を反射して、まるで舞台の幕が下りたかのように、一瞬で場の空気を変えた。
 やがて彼女は、先ほどまで張りつめていた空気をうんと和らげて――その両手を開き、何のためらいもなくリネに差し出してきた。

「おいで、リネくん」

 凛とした従者はもういない。今この場には、かつてリネが貴族の屋敷で見ていた頃の、優しく母性に溢れた一人の少女のみが存在している。
 緊張をとかす微笑みと蕩けるような声色に誘われて、リネは暗い顔を隠そうともしないまま彼女の元へ歩み寄り、まるで幼子が母に甘えるかのごとく、その細い体を預けた。

「もう心配はいらないよ、だってここにはわたししかいないもの。……もうなんにも考えなくて大丈夫。今だけはここで、好きなだけ弱音を吐いていいから」

 子守唄のような声が、リネの耳へととろけ込む。水のように染み渡る包容はリネの心を強く揺さぶり、包み込んで、彼が意識的に堰き止めていた本音や不格好な悲哀の声を、すっかり引きずり出してしまうのだ。
 ――日々の重責に押しつぶされそうになるたび、リネはこうしてナマエのもとを訪れる。かつて、あの地獄のような屋敷で過ごしていた頃と同じように、彼女にだけは弱音を――リネットやフレミネにも言えない苦痛を、すこしずつ吐き出すことができるからだ。
 ただ抱きしめて、話を聞いてくれるだけ。それ以上は何もない。男女二人の深夜の逢瀬にはいささか純粋すぎるほど、この二人が過ごす時間はあまりに重たく、とりとめもないものだった。
 ……彼女と再会するまでの自分は、果たしてどうやってこの苦しみから逃れていたのだろう? もういっさい思い出せないほど、リネはナマエという存在に強くもたれかかっていた。
 誰もいない真夜中にのみ許されるこのひと時は、やがて彼ら二人にとって、かけがえのない時間となってゆく。


 2023/09/29

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