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たとえばふたりが

「ダイゴくんは、私がいなくても生きていけるんだろうねえ」
 何があったわけではなかった。ただ本当に、何気なく、何の他意もなく呟かれたひと言であったように思う。現になまえは特段へこんでいる様子もなく、相変わらずのんびりした調子で青い空を見上げている。今日は2人で散歩に出ていた。なまえは午後からオフであり、ダイゴは夕方から会議に顔を出さなければならない。多忙な2人は貴重な休みを使い、そのチグハグな日常のほんの隙間を縫った逢瀬が、いまここで繰り広げられている。
 なまえにならって顔を上げれば、高い空をペリッパーが数匹の群れになって渡っていた。トクサネという孤島にいてはまみえるポケモンも限られてくる。とはいえ少し前に超古代ポケモンがぶつかりあった影響により生態系が大きく変わり、最近になってこのホウエンではあまり見ないポケモンもちょくちょく見かけるようになった。たとえばケイコウオだとか、プルリルだとか、ママンボウだとか。それでも空を駆けるポケモンはなんとなく見知った顔ぶればかりであり、変化にあふれる日々のなかで不変なものはささやかな安心感をもたらしてくれる。ぱあ、ぱあという聞き慣れたなきごえの狭間、ダイゴはなまえの言葉を待った。
「……あ、別に変な意味じゃないんだよ。ただほら、私は1人じゃダメだけどさ、ダイゴくんはそうじゃないでしょ」
 なまえの足取りは変わらない。さっきまで上を向いていた顔は気づけば足元を見つめている。つま先に当たる小石を蹴っては跳ねさせており、礫がこつん、とドアにぶつかって今度は肩を飛び跳ねさせた。誰の家だ、とおそるおそる視線を上にやると、そこにあったのはダイゴの家だ。他愛ない話をしているあいだに、どうやら帰りついていたらしい。水平線に目を向ける。夕暮れの気配が覗いていた。
「ダイゴくん、そろそろ準備の時間だね」
「……いや、まだ少しくらいは」
「ダメだよ、早めに始めとかないとダラダラしちゃうでしょ」
「なまえが言うと説得力が違うな」
「もう!」
 ぼすん! となまえの手のひらがダイゴの背中を叩く。もう、もう、もう! と何度もぼふぼふ叩かれるが、痛みというのはほとんどない。男女差というやつだろうか、なまえが特別非力な女であるというのもあるかもしれない。くつくつと笑うダイゴはじゃれるようになまえのほうへ体重をかける。潰れない程度に調節はしているけれど、存外真面目なうめき声がしている辺り思ったよりもキツいのだろうか。
 ふ、と頭の隙間に考えが過ぎる。こんな場面を誰かに見られたり、万一すっぱ抜かれたりしたらどうなるのだろうと。それは破滅への一途になるのだろうか、それとも好転へと導いてくれる契機になるだろうか。メディアの力を利用したいと思うのは、そしてそれに微かながら希望を見てしまうのは、まだダイゴが25やそこらの若造だからに他ならない。まだ少し、ほんの少しだけ、縋りたい気持ちが見え隠れする。彼女との未来を夢見たいのだ。
 もたれかかった体を起こし、少し赤らんだなまえの顔を見つめる。はあ、とため息をつくのは抵抗に力を使ったからだ。なまえ、そう名前を呼ぶ。なあに、変わらぬ返事が聞こえた。スタジャン越しに手首を掴んでみると、だぶついた袖の下にあるのは華奢で柔らかな女の腕だ。力を込めると折れそうだ。簡単に壊してしまえるだろう。一人で戦うには脆すぎるそれを、どうして止めることが出来なかったのだろう。どうして一人にしてしまったのだろう。どうして、いつから自分たちは、こんなに道を違えたのだろう。
 自責と後悔が脳の奥を強く叩く。ダイゴくん、と控えめに名前を呼ばれて、ダイゴはようやっと思案にふける意識を取り戻した。ごめん、そう言って手を離すと、なまえはどこか名残惜しそうに熱を孕んだ目を向けてくる。
「送っていけなくてごめんね」
「――ううん、全然。ダイゴくん、くれぐれも遅刻しないように」
「きみに言われたら終わりかなあ」
 ひとしきりじゃれあったあとで、ダイゴはなまえの背中を見送る。カナズミシティへ帰るのだ。彼女は長時間の飛行が出来るポケモンを持っていないので、トクサネから出ている連絡船へ乗らねばならない。出航の時間にはまだまだ余裕がある気はするが――突っ込んだことを考えるのはやめておこう。きっと誰のためにもならないと、ダイゴはかぶりを振って雑念を払う。
 やがてなまえの背中が見えなくなったころ、先立っての彼女の言葉が頭のなかに蘇ってくる。私がいなくても生きていける――それはきっと間違いじゃない。間違いではない、けれど。
「……生きてはいけても、きっと、平気ではないと思うよ」
 こぼれるように独りごちて、慣れたドアノブに手をかけた。

20171210
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