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うたかたのアリア

 なまえは、笑わなくなった。
 おれが好きだった笑顔はほぼなりを潜め、活動的で活発だった明朗さもどこへやら。おれたち家族も目を見開く健啖さは面影なく、1日を部屋のなかで過ごすばかりになっていた。
 アシレーヌ、ラプラス、プリンはもちろん、おれのガラガラもウインディもファイアローも彼女の身を案じて暗い顔をすることが増えている。誰かが凹んだときはいつも彼女の笑顔と歌が元気づけてくれていたのに、今はそれがないのだ。優しくてあたたかな歌声が聞こえないだけで、毎日はひどく静かでつまらないもののように感じる。おれはなまえが好きだ。なまえのことも、なまえの歌も、笑顔も、心も、何もかもを愛していた。だからこそ我が身が引き裂かれるような痛みを覚えているし、日々に苦痛を感じるし、けれどもおれの感じているそれらなどなまえの抱えているものと比べたらきっと月とゼニガメにも等しくて、結局のところ他人であるおれにはなまえの痛みを察してやることも、共感してやることも出来ない。おれに出来ることなんて、傍にいること、気を紛らわせてやること、寄り添ってやること、軽くではあるが外へ連れ出してやることくらいだ。
 声が出ないというのは、一体どれほどの苦しみを味わうことなのだろう。きっと、おれの身に例えるとしたら手足をもがれるに等しいのだ。なまえにとっての“歌えない”は、おれにとっての“踊れない”。もう二度とファイヤーダンスを踊れないかもしれない、それどころか立つことすら、松明を握ることすら叶わない、絶望。おのれの“もしも”でも背筋を震わすほどなのに、なまえは今、その深淵を現実として味わっている。何もしてやれないことがもどかしかった。なまえは支柱をなくしているのに、おれはここに健常なままだ。五体満足で健康的に、変わらぬ日々を過ごしている。なまえは歌えなくなったのに。おれは将来に向けて研鑽を積むことが出来る。なまえは暗いところにいるのに、おれは火の元へ歩いていける。なまえは、でも、おれは。
「……ガラァ」
「ん? ……ああ、ごめんな。暗い顔、してたか」
 気が狂いそうとはこういうことを言うのだろうか、共倒れでもしそうなほどにおれは滅入っているようだ。扉の前で立ち尽くすおれの背中を、ガラガラが気遣うようにつつく。せめてなまえの前ではしゃきっとしろ、そう叱咤されているようだった。
「そうだな……こんなんじゃダメだ。こんな顔してたら、出る元気も出ないよな」
 頬をきつめに叩いてから扉をノックすると、程なくしてプリンがおれたちを招き入れてくれた。水色で彩られた部屋のなか、ベッドの上に座っていたなまえはぼうっと壁にやっていた視線を、おれたちのほうへ向ける。いらっしゃい、来てくれたの、そう言いたげにくちびるが動く。声は、空気に溶けたようだ。
「なに見てたんだ? ……あ、海の民の村の写真か」
 こくん、と頷いたなまえは、画びょうを抜きとって写真を手元へ降ろしてみせる。彼女の祖父が送ってくれたらしいその一枚は、あまり馴染みのないおれですら潮風と香りが感じられそうなくらい、ひどく清らかで美しいものだった。なまえからすればひときわであろう、鬱ぎ込んでいるからこそ郷愁の念が強まっているのかもしれない。懐かしそうな、愛おしそうな目で写真を見つめるなまえを前にして、無視なんか出来るはずがなかった。
「行ってみるか」
 提案すると、なまえは弾かれたようにおれのほうへ向いた。
 久しぶりだ。暗く淀んでいた瞳が、いくらか本来の輝きを取り戻そうとしている。わずか数ヶ月のあいだであるのに、まるで何年も見ていなかったかのような、明かりを灯したなまえの瞳。たゆたう水面のような水色に魅せられて、おれはぎこちないながらも笑みをつくる。きちんと笑えていただろうか。
「そうだな、今度の日曜にでも付き合ってくれ。久々に2人で出かけよう」
 その日はおれの誕生日だから――そのひと言は、唾液とともに呑み込んだ。


 初めて訪れた海の民の村は、あの日に見た写真と相違ない風景を、この上ない臨場感とともに湛えている場所だった。
 同じアローラ・ブルーで繋がっているはずなのに、コニコで味わうのとはまた違った潮風の匂い。照りつける日差しも、聞こえてくるキャモメの鳴き声も、水面で遊ぶホエルコも、アーカラとはまったく別のように思えてなんとなく背筋が伸びる。ちらりと隣のなまえを窺うと、沈みきっていた瞳はポニの光を受けて爛々と輝いているようだった。
 まず初めに訪ねたのはなまえの祖父がいる船だ。時おり話に聞いていたミロカロス号は想像よりも大きくて立派な造型で、お祖父さんもおれが思うより何倍もたくましい海の男だった。なまえの両親に話を通してもらっていたおかげで、声をなくしたこともここに来るまでの経緯も、再びなまえに聞かせて傷をえぐるようなことにはならなかった。ただお祖父さんにしきりに冷やかされたこと、ひ孫の顔が早く見たいなどと言われたことは根に持っておこうと思う。そうしていつか2人でまたここへ来るのだ、元気な子供を何人も連れて、またなまえの歌を聞かせて、おれもこの人へ孝行したい。それまでは元気で居てくださいね、そういうと波の音よりも豪快に笑われた。
 ひとしきり話し込んだあと、ミロカロス号を後にする。なまえはまだ名残り惜しそうにしていたが、今夜はこちらにお世話になるつもりだからといってなんとか外へ連れ出した。他にも見たいところがあるんだろう、そう言えばボールからアシレーヌが飛び出してきてつい吹き出してしまった。アシレーヌもこの村で生まれたポケモンだったのだ。
 おれのガラガラは水に怯えきって出て来なくなってしまったので、おれとなまえとアシレーヌの3人で村を散策することにした。なまえがここを離れて10年以上が経つけれど、これといった変化はないようで胸をなでおろしていた。
 海のうえに村があるというのは、どうにも落ちつかないものだ。桟橋を踏みしめ、自分ではまっすぐ立っているつもりなのに傾いているように思えるし、波のひとつや風のひと吹きで簡単に体が傾いでしまう。一方のなまえとアシレーヌはにこやかに、そして軽やかにあちらこちらへ足を伸ばしていて、なるほど確かに陸と海の人間はなかなか相容れないものなのだろうと得心した。それは決して比喩でなく、そもそもの話としておれたちは住む世界が違うのだ。陸に生まれた人間、海に生まれた人間、空に生まれた人間、地下に生まれた人間。ほかにもこの広い世界にはたくさんの人間が、様々なポケモンが暮らしていて、もちろん同じところに生まれ落ちた者であろうと完全にわかりあうのは難しい。だから至るところで揉めごとが起きるのだ。身近なものならクレーマーとか、酔っ払いのケンカとか、もちろん人間だけに限らず、ポケモンだって縄張り争いをする。異なものは反発しあう。ぶつかりあう。傷つけあう。それでもいつか、どこか、誰かと誰かはわかりあえる。だからこそなまえが生まれたのだし、おれたちも想いあうようになった。
 なんとなく思うのだ、この村でいればなまえの声も戻るのではないかと。おれはなまえの歌が好きだ。なまえのことが大好きだ。なまえの声が戻るのなら、またあの歌が聞けるなら、なまえに笑顔が戻るなら、彼女の父がそうであったように、おれもこの村で過ごしてみてもいいとすら思う。留学を終えて、ファイヤーダンスを極めて、そうした先をここでの暮らしに結びつけることも、おれは出来なくもないんじゃないかなんて、甘ったれた理想を見る。重いと思われようと構わない、おれは、おれたちのためにそうしたいと考えるから。
 もしもそれが叶わなかったら――そのときはまあ、そのときだ。
「そうだなまえ、喉乾いたりしてないか? そこのレストランで何か頼んでくるから、おまえはここで待っててくれ」
 海の民の村にはカフェがない。ただ、村中みんな顔見知りというアットホームな雰囲気のおかげか、話をつければテイクアウトも出来る。Zヌードルを看板メニューとしているようだが、ほかにもジュースやカクテル、パフェに鍋などレパートリーは多岐にわたる。野菜はしまクイーンのハプウさんのところから卸されているそうで、いつも新鮮な大地の恵みを堪能することが出来るのだ。
 なまえはここのホエルオーレが大好きなのだと、オハナタウンを出る前に彼女の母から教えられた。ZヌードルのZもりもぺろりと食べてしまえること、2階から見える景色が大好きなこと、外で遊ぶキャモメに見入って何度も料理を冷めさせてしまったこと、たくさんの思い出を聞いた。それらすべてを思い出させてあげてくれ、そしてまた新しい思い出を2人でつくってこい、とも。
 声の大きな店員にホエルオーレとサイコソーダ、それから軽くつまめるドーナツを頼み、トレーを借りて船を出る。なまえを待たせたはずの場所へ目をやると、なぜかなまえのすがたはなく、アシレーヌがこつ然と立ち尽くすのみだった。
「あれ……どうした、アシレーヌ。なまえはどっかいったのか?」
「…………」
「アシレーヌ……?」
 沈黙を守ったまま、アシレーヌは透き通った水面に向かってうつむいている。不審に思い顔を覗き込むと、今にも泣き出しそうにして口を引き結んでいた。背筋がぞくりとする。情けないくらい震えた声で何があったと訊ねても、アシレーヌの視線は水面から少しも動かない。
 ――どういうことだ。力の入らなくなった両手がトレーを落とす。紙コップが2つ音を立てて転がり、青い液体がびしゃりと桟橋を濡らした。青に染まったドーナツはすぐにペリッパーの群れに連れて行かれ、けれどもおれは彼らを止めることも出来ず、ふらついたままその場にへたり込む。頑なに動かないアシレーヌの視線を追うと、水底で何かが煌めいたのが窺えた。目を凝らしたその先にあったのは、確か――
「おふくろからのプレゼント――!」
 弾かれるように海へ飛び込んだ。透き通った水のなか、驚いて逃げ出すラブカスを横目におれはその髪留めを手に取る。水面から顔を出し、陽の光に透かして見てもそれは確かに見覚えのあるものに間違いなかった。
 なまえの誕生日に向けて、おふくろがわざわざコニコまで行って買い求めた髪留め。職人手作りの一点物で、アシレーヌを思わせるそのデザインに、おふくろはひと目でこれをなまえへのプレゼントにしようと即決したらしい。まるでなまえちゃんのためにあつらえたみたいじゃないかい――そう笑っていたおふくろの顔を、おれはつい昨日のことのように思い出せる。なまえもまたこれをひどく気に入っていて、あれからずっと身につけていたのだ。もちろん例に漏れず今日だって。
 その髪留めがここにある。この水底に沈んでいた。ならばなまえはどこへ? あいつはカナヅチだから泳いでいられるわけはないし、それならそれでアシレーヌがついて泳いでいるはずだ。誰かに攫われるなり何なりしたとしても、そう遠くない場所にいたおれが気づかないことはないだろう。なまえのアシレーヌはかなりの練度を誇っているし、数年前のあの日とは違い、悪党相手に手も足も出ないままなんてこともありえない。もし仮に何かあったとして、こいつはトレーナーと違い頭のいいポケモンだから、犯人を追うなりおれに助けを求めに来るなりするはずなのだ。
 何より気になるのはアシレーヌの視線の方向だ。なぜ海を見つめていた? どうして微塵も動けずにいた? どうして、泣きそうに顔を歪ませたまま、何も出来ずに立ち尽くしていた。そんなんじゃまるで、
「なまえが、海に溶けてしまったみたいじゃないか……!」
 おれの脳裏をよぎったもの。それは、最後の最後に泡になって消えてしまう、悲しいお姫様の物語だった。


「……行くんだね」
「ああ。ずっと決めてたことだから」
 ガラガラ、ファイアロー、ウインディ。それから、アシレーヌ、プリン、ラプラスの入ったモンスターボールを携えて、おれは生まれ育った家を出る。ファイヤーダンスを極めるための留学、その目標にようやっとでありつけたのだ。
 なまえの家族もおれのことを見送ってくれる。頼んだわよ、よろしくね、そんな言葉をとともに渡されたのは決して少なくはないお金であった。受け取れないと言ってもその申し出が聞き入れられることはなく、彼ら曰くこれはなまえが貯めていた留学費なのだという。なまえのポケモンも、なまえの想いも背負うおれにこそ渡したいもので、何より自分たちにとってはきみも息子のようなものだからと――実の家族よりも胸を揺さぶる言葉を贈られて、ほんの少しだけ涙腺が緩んだのは内緒だ。
 ――あの日。海の民の村じゅうの海を探しても、結局なまえは見つからなかった。お祖父さんに申し訳が立たない、そう思いながら伝えると、彼は噛みしめるように頷いて、「そうか」とひと言だけこぼした。あの子は海に還ったんだ、きっと海こそがあの子の在るべき場所なのだと言う背中は出会ったときより何倍も小さく見えて、今にも消えてしまいそうなさざなみのような声をしていた。なまえの家族も同じように、悲しみを隠せないながらも決しておれを責めることはなかった。弟にだけは一発殴られてしまったけれど、きっとこの頬よりも彼らの心のほうが痛んでいるのだと思えば、口のなかに広がる血の味ですらおれを責め立てているように感じられた。その場にへたり込んだまま顔を上げられないでいたおれを、なまえの弟は涙声を隠さずに見下ろしていた。
 そして今日、おれはとうとうアローラを発つ。逃避ではない。諦念でもない。夢を叶えるためだ。なまえと約束した夢を、なまえとともに見た未来をこの手に掴むために発つ。広い世界でファイヤーダンスを極め、必ずここに戻ってくる。空の果てにも、海の底にも轟くような歓声をあげる、彼方まで届く火を灯すため、おれは前を向くと決めたのだ。
 あいつのことだ。きっとまた、明るい調子でおれのことを呼びながら顔を出すだろう。おれの踊りと熱を嗅ぎつけて、また眩しい笑顔を湛えて、おれの大好きな歌声を聴かせてくれるはずなんだ。
 だから、絶対、また会える。おれが踊っている限り、あいつはきっとここに来る。必ず帰ってきてくれる。たとえそれが、逃避にも似た足掻きだったとしても――おれは、そう信じている。

これにて完結です。
サボりながらの連載で結局1年以上かかってしまいましたが、今までお付き合いくださって、本当にありがとうございました。
20180413
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