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おちるヒュメン

 朝。ごろりとベッドで寝返りを打つと、枕元のプリンがあたしの頭にぶつかって転げ落ちていった。
 時計を見るとまだ6時にもならないくらいで、あたしは寝起きのあくびを噛み殺してシーツのなかへ潜り込む。水色のそれはあたしの一番のお気に入り。あたしは海を映した青や水色が色のなかでも一番好きで、部屋にあつらえた家具の数々もそうなのだけれど、あまりに青にあふれすぎて寒々しいとカキに苦言を呈された覚えがある。じゃあどうしたらいいの、と少しへそを曲げながら言えば、赤いのを置けばいいじゃないかと照れを交えて返された。なんとなくおかしくって噴き出してしまったあの日のことを、あたしは今でも鮮明に思い出せる。
 あ。……会いたいな。
 昔のことを思い返しながら唐突にそう思ったあたしは、眠たくて不自由な体を起こしてシーツの海から這い出る。ねむけざましにストレッチをして、まだ寝こけているプリンをボールに収めつつ、部屋を飛び出して一階へ降りた。さすがというべきかお母さんは既に目を覚ましていて、キッチンから目を離さないままあたしに朝食の有無を訊ねてくる。今はいいよ、またあとで、そう言えば小さく返事をして再び手元に集中していた。
 水槽を泳ぐアシレーヌとひと言あいさつをかわしてから、あたしは玄関の扉を開いてすぐのカキの家へ向かった。
 カキの家は牧場だから朝はうちと比べ物にならないくらい早くて、カキも夜明け前からモーモーミルクの配達に出かけていたりするのだ。家の手伝い、キャプテンの職務、ファイヤーダンス、それからバイト、あまりにハード過ぎる毎日もいつかの留学に向けての試練。だからあたしは止めたりしないし口出しもしない。ただ、カキを応援して、あたしもあたしで費用を稼ぐ、それがあたしたちの約束だ。
 こんこん、とカキの家の玄関扉をノックする。今の時間は忙しいから居ないかもしれないな、と思案しつつ、ノックの音に驚いて飛び去っていくツツケラの群れを見送っていると、けたたましい足音とともに勢い良く扉が開いた。出てきたのはカキのお母さん、アマラおばさんだ。小脇に先日生まれたばかりのブビィを抱えているけれど、果たして熱くはないのだろうか。
「おはようなまえちゃん! 今日は早いんだねえ」
「おばさん、おはよう。えっと、カキって今いる?」
「カキ? あの子はいま確か――あ」
 はた、と何かを思い出したようにアマラおばさんが空を見る。そろそろと視線を彷徨わせつつ、あたしの顔を見てはにたりと笑った。
「ははぁん、なるほど。そういうことか」
「おばさん……?」
「そういえば去年もそうだったね! あはは、我が息子ながら一途なこった」
「話が見えないんだけど――」
「おっと、ごめんよ。あの子ならねえ、今はせせらぎの丘にいるかな」
 ――せせらぎの丘。
 カキとはあまり結びつかないその名前に、あたしは思わず首を傾げる。アマラおばさんは未だににやにやとしていて、抱え込んだブビィの頭を撫でては思い耽るように頷いていた。うんうん、なるほど、そうだよねえ。そう繰り返すおばさんはふとブビィから離した手をあたしの頭に置き、寝癖まじりの髪を撫でながら白い歯をのぞかせて笑う。
「こらこら、女の子がこんなナリでどうするんだい。せっかくの今日だっていうのに」
「だ、だって目が覚めてそのまま飛び出してきたから……」
「カキに会いたくなって?」
「うっ……う、うん」
 あたしの曖昧な返事に、髪を撫でつけるアマラおばさんは笑みを濃くする。そして、抱えていたブビィを降ろし、何かの用事を頼んでから、改めてあたしに向き直った。牧場仕事で荒れている手はそれでも手つきは気遣わしげで、彼女が二児の母であることをこれでもかと示している。あたしも、あたしの弟もおばさんのことが大好きだった。
「いくら幼なじみだからって、恋人んとこ会いに行くのに自然体すぎるのはダメだよ? どうせなら可愛く見られたいじゃないか」
「う……はい」
「ま、うちの息子はそんなこと気にするやつじゃないけど――こっちの気持ちの問題さね」
 あらかた髪を整えた頃、少しおぼつかない足取りのブビィが何かを持ってきた。おばさんは任務を無事完了したブビィをたくさんたくさん撫でて、彼が大事そうに抱えた荷物を受け取る。透き通るような蒼に輝くそれは、貝殻を加工した髪留めだった。
「こんくらいは許されるだろ。あたしからのプレゼントだよ」
「えっ――ど、どうして」
「答え合わせはカキがしてくれるさ」
 手慣れた手つきであたしの髪にそれを着けるアマラおばさんは、少し体を離してあたしを見ながら強く頷く。これならもう大丈夫、誰もが認めるべっぴんさんだよ、そう言ってあたしをくるりを裏返し、勢い良く背中を押した。行っておいで、と笑う顔は朝日よりも眩しい。
「せせらぎの丘だからね、道間違えんじゃないよ」




 せせらぎの丘は、文字通り水面のせせらぎが心地よいアーカラ島の名所のひとつだ。
 さらさら、ひたひた、といった浅瀬のたわむれは人にもポケモンにも好まれているし、釣りの名所としても知られている。釣り人は絶えず糸の重みやルアーの浮き沈みに一喜一憂しているし、それでなくてもぬしポケモンの現れる場所であるから賑わうのも当たり前かもしれない。アーカラ島のキャプテンのひとり、みずタイプの扱いに長けるスイレンも、ここで試練を行うはずだ。
 けれど出入りの激しいアローラに住む人々は、スカル団や一部を除けばマナーは心得ているし、観光客もこの場の雰囲気を察して騒ぎ立てることはない。命の気配に溢れはしても、けたたましい不快な場所になり果てることはない――それがここ、せせらぎの丘という場所だった。
 あたしはここが好きだった。海につながる開放的な景観や、ヨワシやニョロモ、ヒンバスといったみずポケモンとの出会いにも恵まれる。ここにいればインスピレーションが刺激され、いい歌が歌えるような気がするのだ。桟橋やすぐそこにある水により海の民の村を思い出すことも相まって、あたしは用のないときは大体ここに立ち寄っていた。歌えばポケモンが寄ってくる。それは、この場所でも同じだった。
 けれど今あたしが思い描いている少年――カキとなったら話は別だ。炎を体現するような彼はあまりこの場に馴染みがない。思いつかないし思い浮かべられない、そんなカキがなぜわざわざここへ立ち寄っているのだろう? 意味深だったアマラおばさんの態度も気になる。あたしは疑惑に頭を悩ませながら、せせらぎの丘最奥部――ぬしの間まで来ていた。
 試練の場を示すゲートをくぐると、水際に立つカキの姿がすぐそこに見えた。手持ちポケモンへの配慮だろうか、今は誰も連れていない。元々しっかりしていた体格はこの数年で更に精悍となり、広くなった背中を見ながらあたしは胸が締めつけられる。好きだなあ、なんて、口から出そうになるのを必死で抑えた。
「来たな」
 くるり。あたしの訪れを読んだカキが、砂を踏みしめながらゆっくり振り返る。穏やかながらも凛々しい顔がうんと優しく微笑んでいて、あたしの頬が熱くなった。
 あたしの変化をなんとなく察したのだろう、カキはくつくつと喉奥で笑う。
「今さら何がどうってわけでもないだろうに」
「だ、だって――なんか、ダメじゃん」
「そうか? ……まあ、そうだな。おれもそうだ」
 ぐいと強く手を引かれ、あたしはカキに抱きとめられる。あたしの顔をまじまじと見るカキは、けれどもあたしと同じように頬を染めて目を逸らした。後頭部をポリポリとかく仕草は、何年経っても変わらない。
「おまえも、その、綺麗だ。……おふくろからもらったんだろ? それ」
「そうなの、よくわかんないけどもらっちゃって」
「よくわかんない、か。そうだな、そういうもんだよな。おれも似たようなもんだ」
 カキは再びあたしを抱き寄せ、力強く抱きしめてくる。ひえ、と何も言えずにされるがままとなっていると、ささやくように言葉をくれた。
「誕生日おめでとう、なまえ」
 ――誕生日。かすれたカキの言葉を頭のなかで反芻し、あたしはあっと声をあげる。だからおばさんは、あたしに!
「おふくろ、気を遣ってくれただろ。何回か先越されてたからな」
「それでこの髪留めも……!」
「そういうことだ。よかった、今年は一番乗り出来たみたいだな。どうせならここで言いたかったんだ」
 ふう、と深く息を吐くカキは、あたしの肩口に顎を預けて脱力している。泊まるわけにもいかないし、とか、いざとなるとおじさんおばさんに申し訳ないな、とか、13回目の正直だ、とか、色々つぶやいているのが聞こえたけれど、あたしの耳には素通りだ。だって、こんなにも、胸がじんわり熱くなってる。あたしの忘れてたことを覚えてくれただけでなく、こんなにも穏やかで確かな想いを抱いてくれていたことが、あたしはすっごく嬉しいんだ。
「ちょっと、まあ、子供じみてるとは思うけどな。やっぱり男にとって『一番』ってのは大事なんだよ」
「そういうものなの?」
「ああ。好きなやつの一番には、誰だってなりたいもんだろ」
 唇をとがらせるカキは言葉以上に子供じみていて、それがなんとなくおかしかった。無音で噴き出せばじとりと視線が投げられたけれど、気にしないふりでカキに抱きつく。身を委ねるように力を抜いていたカキも、改めてあたしを抱きしめてくれた。
「ありがと。あたしの一番、ずっとカキだよ。カキは?」
「……言わせるなよ、わかってるだろ」
「言ってよ、ねえ、せっかくの誕生日なのに」
「さっきまで忘れてたくせに……」
 渋々といった言葉に反して、カキは優しく笑っている。一度からだを離してから、あたしの手を撮って跪いた。
「おれの人生のパートナーは、おまえだけだよ」
 じっと見つめてくる黒瞳に、あたしはキスで返事をした。
 数年前には決して言えなかった気取ったセリフ。恥ずかしくてなかなか触れ合えなかったくちびる。でも、それが出来るくらいあたしたちは大人になった。歳を重ねた。2人で、ずっと、そしてそれはこれからも変わらないことだと信じてる。
 何よりもその想いを再確認できたことが、一番の誕生日プレゼントかもしれない。
「――――っと、すまん、無理言って来させてもらってたんだ。早く牧場に戻らないと」
「あはは、うん。あたしも一緒に行くよ」
「終わったらパーティーあるからさ。おばさんが張り切って用意してるらしいから」
「ええ? もう、そんな子供じゃないのになあ」
 軽口を叩きながら手を繋いで家路につく。やさしくて、あったかくて、しあわせな誕生日は、これから先もずっとずっと続くんだろうなって、朝焼けにきらめく水平線を見ながらあたしはそう思っていた。
 思っていたのに。
「なまえ――!?」
 約束通り開かれたパーティーのラスト。
 みんなにお礼の歌をうたう、そんななんてことない場面で、悲劇というものは起こってしまった。
 引き攣る喉を掻きむしるあたしに、カキやお母さん、お父さん、ホシちゃんたちが駆け寄ってくる。プリンも、グランブルも、ブーバーも、ガラガラも、みんながみんな心配そうにあたしのことを見ていた。テーブルに並ぶきのみ料理をひっくり返してしまったけれど、あたしには何も見ている余裕などなかった。
 はくはくとコイキングのような開閉を繰り返すだけのあたしの口を見ながら、心身を驚愕の色に染めるカキがこわごわと口を開く。
「まさか……声が、出ないのか……!?」
 それは、きっと、絶望だ。
 重たくのしかかるそれに潰されそうな心のまま、あたしの18回目の誕生日は幕を閉じた。


20170818
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