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ささやくアモローソ

「カキは外国いっちゃうんだね」
 ぺとん。背中にかかる重みはその質量を増した。おれの自室の片隅にて、へばりつくでも抱きつくでも背中合わせでもなく、恐らく横向きに寄り添わんとして張りついていることが伝わる声からなんとなくわかる。急にどうした、跳ねる心臓を抑えながらそう訊けばぐずりと鼻を鳴らす音が聞こえた。
「さみしい」
 どくり。早鐘のように脈打つ鼓動をなまえに知られないこと、今のおれはそれだけを強く強く願っていた。
 この前約束したばかりだ。おれはこいつと一緒にいると、アーカラから離れないとほんの数日前に言い放ったばかりである。もっともそれは「約束」ではなく「嘘」なのだけれど、あのとき既におれは留学のことを視野に入れていて、実家の手伝いやキャプテン業に加えてバイトも始めているのだから。
 正直投げ出したいくらいハードな毎日であるけれど、きっと外の世界ではこんなのまだ可愛らしいほうであるだろうし、経験や体験は何事も若いうちから済ませておくべきだと家族もみんな言っていた。頑張れば頑張るほど夢が近づくならおれは必ず耐えてみせる、その先におれの希望が、あこがれが確かにあるのなら。
 ――話を戻そう。そんなおれの決意もあの日は口に出すことができず、ちゃんとなまえに伝えられないまま何日かが過ぎて、今日。まさかなまえから留学の話を持ちかけられるとは思わなかった。涙声ではあるが確かな音を持ったそれは、静かに、けれど的確におれの耳まで滑り込んでじくじくと脳を蝕んでゆく。
 かつてはおれのダンスを大好きだと言ってくれたその口で、いつも軽やかなメロディを奏でるその口で、なまえは包み隠さない本音を吐き出す。やだなあ、と呟いた言葉はきっと独り言に近い。
「あたし、カキのこと応援するって決めてた。カキが決めたことなら絶対『がんばれ』って言おうって、ずっと思ってたのに」
 ごめんね、頬をすり寄せるようにうつむいたのが背中越しにわかる。謝罪の真意は、今のおれにはわからない。
 なまえはおれにとって初めてのファンで、そしておれもまた、陸の世界でのなまえの歌の最初のファンだ。幼い頃から2人で踊っては歌い、歌っては踊り。お互いの家族にも近所の人にも、気づけばオハナタウン中の人にもおれたちのパフォーマンスは広まっていた。
 色々な人がおれたちのことを応援してくれている。だからこそおれはファイヤーダンスを極めたい。みんなが好きだと言ってくれた、笑ってくれた、そしてこのアローラに連綿と伝わる伝統をこの身に刻みたい。ガラガラと共に強くこの心を掻き立てる踊りを、誇りを持って習得したいのだ。
「ここじゃ、ダメなの」
 きっとそれはなまえも同じだ。みんなに楽しんでもらえたから、そして歌うことが好きだからこそなまえは朗らかに歌う。伸びやかな音色を奏で、その歌は時にポケモンの怒りすら鎮める力を持っていた。心があれば伝わるものがある、それをおれたちは歌と踊りを通して長い年月のなか感じてきた。
 ただひとつ違うとすれば、それは向上心だろうか。なまえは歌においてもバトルにおいても天才的に、己の感覚に忠実にして輝かしく咲き誇る。こいつは苦難を知らない。アローラという土地から、もっと言うなら越してきてからはアーカラ島も数えるほどしか出たことがないから、それよりも上の世界を知らないのだ。ゆえにこいつはひどく純粋で、純朴で、そして無知である。もちろんおれとてこいつの才能を見くびっているわけでなく、むしろ世界に通用すると思っているからこそこの無欲さがひどく惜しい。重ねて言うがおれはなまえの最初のファンだ。だからこそこいつの歌を世界中に知らしめたいし、叶うならば華々しい舞台で共に身を焦がしたいと思う。
 ならば。
「――なまえ」
 淋しいのなら、どうするか。答えは至って簡単だ。こいつも連れていけばいい。無論金銭面での現実的な問題はあるし、共倒れしたり片方だけ才能を見出されたりして仲違いするハメになるかもしれない。しかしどれほどリスクがあろうと一度決めたのならば、それが男の矜持というものであろう。
 ――もっとも、このひどく淋しがりで頼りなくて傷ついている幼なじみを1人にしておけないというのも、それはそれは大きな要因であるのだけど。
「その、おまえがいいなら――」
 おれと一緒に、来てくれないか。







「決めた! カキ、あたし決めたよ!」
 ――という言葉は、出し抜けななまえの声に阻まれる。
 急激に我に返ってしまった反動で襲い来るのは耐え難い羞恥心。耐えきれずに顔を覆って唸っているおれのことなどどこ吹く風だ、なまえは何か決意を改めたように顔をあげて素早くおれの隣に座る。
「あたしも! カキの留学に! ついていく!」
 は?
 我ながら間抜けな顔を晒してしまった、と思う。しかしなまえにおれのアホ面を気にする様子はなく、あのね! とおれの手を取って力説し始めた。
「あたしもバイトする! お仕事の手伝いしたりバトルしたり、あと観光客さんからチップもらったり!」
「……は、」
「そしたらついてっても平気だよね!? そこいらのトレーナーになんか負けないくらいバトルだって頑張るしっ、お、お料理とかだって、やってみせるしっ」
「ま、待て待て待て、落ち着いて――」
「あたしがめちゃくちゃ頑張ったら、カキもあたしとずっと一緒にいてくれるもんね!?」
 ぎゅう、とおれの手を握るなまえ。その声は悲痛に揺れ、手先もひどく冷えていた。頑張るから捨てないで、そう言外に込められている気がする。
「……おまえ、ほんとバカだな」
 思わずもれたのはなまえを突き放す言葉ではなく、むしろ自分でも驚くほど穏やかなものだった。この気持ちを表す言葉が今のおれにはわからないけれど、ただひとつ言えるとしたらこのバカな幼なじみがひどく愛おしいということ。
 ふとなまえを見やると、「バカ」の意味を勘違いしたのか涙目になって今にも泣き出しそうになっていた。謝罪と「泣くな」の気持ちを乗せて頬をなでれば、どこか安心したように手のひらへ擦り寄ってくる。
 ――1人になんか出来るわけないだろう。こんなにもおれは、おれの心がおまえを必要としているのだから。
「無駄遣いはするなよ。今から倹約を身につけておくことだ」
「……うん」
「それから、歌の練習も欠かさないこと。世界は甘くないからな」
「うん」
「……まあ、おれもポケモンたちも居るんだからそう変なことにはならないだろうが、用心に越したことは――」
 言いかけて、なんとなく止まった。生返事続きが気になって、気恥ずかしさから逸らしていた目をふとなまえのほうへ戻せば。ぽうっと熱に浮かされたような顔で、おれのことを見ていたから。
「どうした……?」
「へ? あ、えっと――あのね」
「ああ」
「その……あたし。逆プロポーズみたいなこと、しちゃったのかなって、思ったの」
 ――逆プロポーズ。
 突飛な単語に思考をフリーズさせていると、なまえはもごもごと口を動かしながら言葉を次ぐ。
「でもね、全然いやな感じはしなくて……むしろストンと落ちてきたっていうか、あたし、カキといられることが、嬉しくて」
 ぽふん。おれの手をすり抜けて身を寄せてくるなまえは、ひどく安らいだような声をしている。触れる肌が熱く感じるのは、おそらく気のせいでもないのだろう。
「カキのこと、好きなのかな。って思ったら、なんかちょっと、変な感じに、なって」
 嫌じゃないんだよ、そう付け加えてなまえは体重をかけてもたれかかってくる。おれの手は自然となまえの背中へ伸び、抱きしめるような格好になった。心臓は、相変わらず早鐘だ。
「カキは?」
 穏やかな声で訊ねられて、なんだかぎゅう、と喉の根がつまったような感覚に陥る。言葉がうまく出てこなくて、絞り出せるのはひどくシンプルなものが精いっぱい。
「おれも、おまえが好きだ。…………と、思う」
「えー!? 思う、ってなに!?」
「おまえだって好きなのかな、とか疑問形だっただろうが」
 おれの反論に納得したのだろう、なまえは確かに! と跳ねるように体を起こす。淡い水色の瞳がおれを見つめてくる、この色もひどくいとおしかった。
「あたしね、カキのこと好きだよ。だぁいすき、いっぱいいっぱい、好き」
 まっすぐに伝えられる、好意。おれの顔は自然と笑み、そしてひときわ自然に言葉が出てくる。
「……おれも。おれも、おまえのことが好きだ。今度は本当に――ヴェラの火山に誓ってもいい」
 素直にそのままを伝えれば、なまえは嬉しそうに目を細めて、そして太陽にも負けない眩しい笑みを浮かべる。
 ――ああ、この顔がずっと見たかった。ここのところ沈んでばかりだったから、やっとまみえたなまえの笑顔におれはなんだか救われたような心地を感じている。再びその体を抱きしめれば、なまえもまたうんと手を伸ばしておれのことを抱き返してきた。
 いつかこの島を出ることになったとしても、そしてその先にもずっとこの幸せが続けばいい。そんな、ガラにもないようなことを思いながら、おれはふと、このかけがえのないぬくもりへ浸るように目を閉じた。
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