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よるのアマレッツァ

ちょっと不健全

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 ――ひたり、ひたり。
 暗がりのなか、ずっと背後につきまとうそれにぞくりと背筋が粟立った。忍ぶような気配は決して優しいものじゃない。明るく友好的なものでもない。じっくり、じんわり、なまえのことをつけまわす、悪意や欲望に満ちたものだった。
「だ……だれ……? なに……?」
 実のところこの気配を感じるのも初めてではなかったのだ。カキや牧場のポケモンたちと触れあっていればすぐに忘れてしまったから誰かに相談したことなど一度もなかったのだけれど、今になってみれば確かにこの気配は定期的に、そして夜間に、ずるずるとまるでアーボックやハブネークのような這い寄る心地で足元を絡めとろうとしてきていたような、気がする。
 おぞましいと呼ぶべきこれをすぐに忘れられたのは利点であり欠点でもある。引きずらないと言えば聞こえはいい、しかし学習しないとすれば生きていく上での重大な欠陥にもなりえるだろう。
 ――こわい。こわい、怖い、恐い!
「お、オシャマリ! “バブルこうせん”!」
 姿を表そうとしない「影」に向かって打ち出す“バブルこうせん”は、トレーナーが恐怖にとらわれているのだから当たるはずもないだろう。見当違いな場所に放たれた泡の群れ――むしろ群れと言うには頼りない、“あわ”と呼んでも差し支えないようなそれが、散乱しては辺りの建物にぶつかって弾ける。ぱちん、ぱちん、ぱちん、ちょうど10個目の泡が割れた瞬間、死角から飛び出したのは――
「“だましうち”――」
 突然の襲来。かわすことなど出来ず直撃を受け、オシャマリは回復したばかりの体を横たえる。
「油断するな、“ウッドホーン”」
 慈悲などないとでも言わんばかりの追撃に、オシャマリは瞬く間に戦闘不能へと陥った。レベル差もあるのだろうか? 何にせよ効果抜群のわざをモロに食らい、今さら立ち上がることなど出来ない。
 連撃で吹っ飛んだオシャマリのもとへ駆け寄ってしゃがみ込みつつ、なまえは「影」のほうを見やる。ぬらり、音もなく現れた男はオーロットを従えながら、気味の悪い笑みを浮かべて、言った。
「ッはぁ、会いたかったよ、なまえちゃん」
 うんと口元を歪めて笑うその男はやはり足音ひとつ立てずになまえとの距離を縮めてゆく。荒くなった息がおぞましい。他にも何か独り言のように呟いているが、それらはひとつも聞き取れなかったし、もはや聞き取りたいとも思えなかった。
 きもちわるい、よらないで、こないで、あっちいって。どれも言葉になることはなく、歯の根も噛み合わないまま震え続けるなまえを見下ろしながら男もまたその場に座り込み、そして。
「可愛い、かわいいねえ――!」
 無遠慮になまえの二の腕を掴み、ぐいと顔を近づけて歓喜の声をあげたのだった。
「ひッ――!?」
「ああ、かわいい、かわいい! 柔らかいねえなまえちゃん、ハァ、お肌もスベスベなんだなあ……!」
 両の二の腕をなでまわし、あろうことか男はなまえの胸元へ顔をうずめて鼻息を荒くしている。年齢不相応に育ちすぎたそこは確かに情欲を煽るフォルムをしているのだろう、普段から覆い隠すことなく水着とそう変わらない服装でいるのだから尚更だ。
 しかしいくら不注意が過ぎるからといってそれが触れてもいいという意思表示なわけがない。許可を取ろうと取らなかろうと不躾であり品性下劣なその行為はもはや獣も同義なのだ。
「ずっと、ずぅっと好きだったんだ、浜辺で歌っている君を見たときから、へへェ」
 人という形に蠢くケダモノの行為になまえの恐怖と嫌悪は募り、とうとう声すら出なくなった。体も心も言うことを聞かず、ただ壊れた蛇口のように大粒の涙を流すばかり。抵抗らしい抵抗も出来ない。押し返そうにも男に触れられた二の腕はぴくりとも動かないし、つま先は冷えきって感覚がない。男の背後に控えるオーロットは絶えずなまえとオシャマリのことを威嚇していて、錯乱する思考回路の片隅で、悟った。
「君の歌が、君の、君の体が、はぁ、好きだよ、ッあア!」
 ――ああ、もう逃げられないのだと。


「――ロッ!?」
「どうしたオーロット!」
 絶望の淵で目を閉じたなまえに差し込むひと筋の光明。
 突如オーロットが声をあげたかと思うと、何処から飛来したのは――ホネ?
 暗闇で大きく旋回しながら戻ったその物体は、一匹の小さなポケモンの手へと渡った。
「大丈夫か、なまえ!」
 ホネを掴んだのはなまえもよく知るカラカラである。そして、その見知ったカラカラに遅れて走ってきたその人物を視界に入れられた瞬間、なまえはようやっと声を絞り出すことが出来た。
「カキぃ!」
 思わぬ妨害に男はなまえから手を離しオーロットを呼び寄せる。カキとカラカラも構え直して男と向き合い、そっとなまえに目配せをした。「もう大丈夫」と。
 頷くなまえに恐怖の色は薄れている。カキの「大丈夫」が違えたことなんて一度もなかったからだ。
「いくぞカラカラ、もう一度“ホネブーメラン”だ!」
「ハッ、相性ってもんを知らないのか!? そんなもの効くわけがないだろうが!」
 距離を詰められぬ間、せめて少しでも削ろうと放った“ホネブーメラン”は軽く弾かれた。カラカラがぐっと身構えたのは来たる衝撃に備えようとしたのだろう、案の定オーロットの腕が大きく振りかぶられている。
「待っててねぇ、なまえちゃん! ――死ねェ、“ウッドホーン”!」
「ギャウ!」
「カラカラッ――くそ!」
 ぎりぎり直撃は免れたものの、少しかすった程度なのにもうカラカラは足元がふらついている。このままだとどうなる? なまえがどんな目にあわされるかわからないし、カラカラだって手痛い仕打ちを受けるかもしれない。カキは強く手のひらを握り締め、活路を見出そうとするが――
「熟考なんてさせるかよォ!」
 明らかな敵意を持つ男がそれを許すはずもない。男がついと手を上げると、オーロットが頷いて攻撃は再開された。
 ルールも何もあったもんじゃない“だましうち”の猛攻に、辺りの砂は巻き上がり岩が砕けて砂塵が舞う。やがて視界を奪われ始めた頃、男は汚らしく口元を歪ませて、笑った。
「今すぐ楽にしてやらァ! “ウッドホーン”!!」
 刹那、とびきりの一撃が襲う。巻き起こる爆風でとうとう視界は闇に包まれた。ふと目の端に映った空はもうとうに真っ暗で、日の沈みきった夜空には静かな月が顔を覗かせており、しかしその遠い輝きではカキたちの道を照らしてはくれない。なまえのもとへ近づこうにもそばには男が控えていたし、やみくもに動いてもバトルに巻き込まれるかオーロットに捕えられるかのどちらかだろう。今はただ、カラカラの無事を祈り煙が晴れるのを待つのみだ。
 ……長い、長い沈黙の後、その煙の向こうに見えたのは――
「カラカラ……? いや、これは――」
 ――熱く燃え盛る、炎!
 夜風によって晴れた視界の向こう側、ひとまわり大きくなった後ろ姿は黄土色から黒味のある深い紫へ。いっそうたくましくなった体躯は凛としている。被っていた母の骨は誓いを宿して同化しており、その想いは携えた立派なホネにも表れていた。無念、悔恨、寂寥、数多の無念が炎となり、湧き上がる怨念とカキの意志をまといながら、カラカラはこの窮地でまばゆく進化を遂げたのだった。
「ガラァーーーー!!」
 オーロットの“ウッドホーン”を真っ向から受け止めていたガラガラは、力強くそれを弾き返して高らかに吠える。瞳に宿る闘志の炎を感じ取ったカキが、強く深くうなずいた。
「反撃の狼煙だ……! ガラガラ、“かえんぐるま”!」
 紅蓮の炎をまとうガラガラがオーロットへと突撃する。くさタイプにほのおタイプのわざは言わずもがな効果抜群であり、油断も相まってオーロットは“かえんぐるま”を急所に食らってしまった。
 思わぬ反撃にオーロットのみならずトレーナーまで怯んでしまったようで、思わず後退りするしどろもどろな、男。ふと奴の足元を見やるとなまえがいない。どうやら無事安全圏まで移動できていたようで、涙ながらではあるがオシャマリを抱えてカキのバトルを見守っていた。
「ヒッ……オーロット、“ウッドホーン”!」
「呆れたな、相性ってものを知らないのか? ――効かん!」
 オーロットの“ウッドホーン”を軽く受け流すガラガラ。意趣返しとでも言おうか、先刻の文句を吐き出してカキが瞳に炎を灯しながら笑う。
 ――さあ、今こそトドメのとき!
「ガラガラ! “シャドーボーン”!」



「――なまえ! 大丈夫か!?」
「カキ……っ!」
 尻尾をまいて逃げ出した悪漢の背中を見送ったあと、弾けるようにカキはなまえのもとへ駆け寄った。震えこそひどいが目立った怪我や衣服の乱れはなく、ようやっと呼吸が叶ったような心地でその場に座り込む。
 ……当たり前だ、カキだって怖くなかったわけじゃない。見たこともない男、未知のトレーナー、犯罪の一端、被害者は幼なじみ。いくら年齢以上に落ちついていようと怖いものは怖いだろう。もしあそこでガラガラに進化していなければ――考えただけでぞっとする。
 ありがとう、感謝の意を込めてそっとガラガラの頭を撫でる。ふわりと目元を緩ませたガラガラは、カキがなまえを見るのと同じようにオシャマリを気遣っていた。
「おまえに何かあったら、おれは……」
 ――おれは? ふと向き合ったなまえへ吐こうとした言葉に、驚いた。
 不自然に途切れた文句は飲み込まざるを得なかったとでもいうべきか、自分のなかにその答えがうまく見つけられなかったのだ。それこそ暗中模索もいいところだが、しかし目の前にいるなまえは中途半端な言葉を許してくれなかった。
「おれは……なに?」
 続きをねだるような目線を向けられてしまい、しかし先程までのことを思えば変に突っぱねて傷つけるなどもしたくない。ゴニョゴニョと煮え切らない口元を動かして、続けた。
「おれは、その……、…………困る」
「えぇ? ……なにそれぇ」
 くすり、なまえが小さく笑う。震えはもうほぼなくなっていた。オシャマリとガラガラをボールに戻し、カキはなまえの手を引いて立ち上がらせる。
「帰るか。おじさんにはあとで連絡しといてやるから」
「……うん」
 ――笑えるならもう大丈夫だろう。
 そう思ったのは実のところ早計であるのだけど、今のカキはそれを悟る術も余裕も持ち合わせてはいない。ただなまえが笑っている、その事実を受け止めるだけで精いっぱいだった。
 久しぶりに手をつないで、ぎこちなくも笑いあって。真っ暗闇のオハナタウン郊外から、2人はゆっくりと帰路につくのだった。

ゲームだと進化直後じゃかえんぐるまもシャドーボーンも使えないんですけどなんというかあの、許してください
- ナノ -