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ひびけエスプレッシヴォ

 あたしのお母さんは海の上で生まれた。
 そのことに何か不満を抱いていた様子はなく、むしろこの海の雄大さを知らないなんて、と陸の人を下に見ていた節もあったらしい。海に生まれ、海と生きる、海と添い遂げ海に還る、そんな一生を歩むのだと漠然と思っていた、お母さんはそう語る。
 そんな、海を愛し海のままに生きていたお母さんに訪れた転機は至極唐突で、そしてとても劇的だった。ひと言で言うならそれは「恋」であり、まさかのまさかでお母さんは陸の男に恋をしたのだと。言うまでもなくその陸の男はあたしのお父さんであって、お母さんは海で培った話術や知恵を強かに用いてお父さんを射止めたらしい。
 けれどお父さんは陸の人、お母さんは海の人。相容れないところも多く、始めこそ乗り気だったお父さんも陸から離れた生活に不自由を感じ始め、いつしか陸へ帰ることを望み始めたのだという。愛しい人をとるか故郷をとるか、お母さんは迷うことなく愛を選んで陸へと降りた。愛する人のために海を捨てるなんてなんだか人魚姫みたいでしょうと笑うお母さんはとても幸せそうで、なるほどこれが人を愛するということなのか、人を好きになるとこんなにも幸せになれるのか、小さな頃からあたしはそんなことばかり考えていた。
 そしてあたしたちの移り住むことになった町がアーカラ島のオハナタウン。お父さんはもともと他の地方の人で、アローラでお父さんの故郷によく似た町がここだったのだと言う。近くに牧場もある牧歌的なこの町は、けれど荒野を思わせる風景も兼ね備えていた。海の民の村とは正反対に位置するこの町にあたしは馴染めそうな気がしなくて、お父さんが陸に降りたがったのも納得だなあと今なら思う。
 お母さんのお父さん、つまりあたしのおじいちゃんが乗っていたミロカロス号は実のところあたしが生まれてから海の民の村を出たことがなく、あたしたちが陸へ行くことを許してくれた理由も色々あったらしいけれど、おじいちゃん曰く「そろそろ潮時だった」のだと。海の民の人間でありながら、おじいちゃんは人は陸から離れては生きていけない、そのことをなんとなくで察していたのかもしれない。お母さんが陸の人に惹かれることも、やがて陸に降りるようになることも、もしかするとおじいちゃんには最初からわかっていたのかな。オハナタウンに来てからずっと会っていないけど、向こうで元気にしてたらいいな。
 けれど誰が誰にどんな想いを抱いていようとあたしの気持ちをどうこうすることなんか出来なくて、単刀直入に言うとあたしは引越しにあまりいい気分ではなかった。あたしは海が、海の民の村が好きで、みずポケモンと深く深く繋がれるあの場所が本当に大好きだったの。あたしが歌えばコイキングやホエルコが跳ね、キャモメが舞い降り、ダダリンが顔を覗かせる。そんなあたりまえの毎日、あたしにとっての「日常」は簡単に大人の手で奪われた。
 あなたもいつか陸の人に恋をするのよ、そうお母さんは口癖のようにあたしに言っていたけれど、あたしにとってそんな言葉は何の意味もなかったし、勝手に人の恋路を決めないでほしいとも思っていた。わたしの娘だもの、きっとそう、まだ5つや6つのあたしにそう言っていたお母さんは自分の人生を愛していたのだろうな。人生を、お父さんを、あたしを、弟を、みんなを愛していたからこそそんな言葉が出てきたのだろう。結局のところあたしにその辺はよくわからないけれど、もしも自分に娘が生まれたら陸でも空でもポケモンでも好きに恋をしてほしい、そう言うと思う。
 ミロカロス号とは似ても似つかない船に揺られて、トラックに押し込まれて、そうして訪れたオハナタウン。乾燥した空気と砂煙で咳き込んだあたしはどうにかしてここから離れたかった。だから引越しの片づけもそのままに探検に行くと言ってさっさと家を飛び出したのだ、そう言えばお母さんは快く送り出してくれたし誰もあたしのことを疑わなかった。このまま家出でもしてしまおうかと思っていたくらい、このときのあたしは思いつめていたのにね。
 知らない町の知らない空気、見えるポケモンだって全然違う。オハナタウンの大きなお家を横切りながら進んだ先には枯れ草のような色の草むらが広がっていて、こみ上げる不安が抑えきれなかったあたしはふとおばあちゃんやお母さんに教えてもらった海の民の歌を歌い始めた。これを歌えば必ずポケモンが寄ってきて、水辺で揺られながらあたしの歌に聞き入ってくれていたのに。
 ……みんな元気かな。そういえばキャモメは怪我をしていたけれど大丈夫だろうか、ひと回り大きいコイキングにはさよならの挨拶も出来なかった。近所のお姉さんが連れていたサニーゴともやっと仲良くなれたのに、思えば思うほど海の民の村への郷愁の念があふれてきてあたしは頬に伝う涙を抑えることが出来ずに膝を折る。
「かえりたい、ッ、かえりたいよお」
 一度あふれたものはもうせき止めることなど出来ず、あたしはタガが外れたようにひとり道端に座り込んで泣きじゃくる。なんでこんなところに連れてこられたんだろう、どうしてあの村に居させてくれなかったんだろう。引越し前にごねるだけごねておけばよかった、そうしたらあたし1人でもおじいちゃんのところに置いてくれたかもしれないのに。
 ぐるぐると後悔に押しつぶされるあたしの背後からかさりかさりと草むらの揺れる音がする。なに、だれ、どうしよう。怖いポケモンだったらどうなっちゃうんだろう、やっぱりこんなところ来なければよかった!
 ひときわ大きくなった草むらの音にぎゅっと目をつぶるけれど何か激しい気配がすることはなく、むしろひどく優しい足音が聞こえて恐る恐る目を開けてみる。そこにいたのは柔らかく笑うミルタンクとケンタロスで、見たところこの2人は夫婦か何かのようだった。ぶも、と鼻息荒いケンタロスをミルタンクが宥めてあたしの頭を撫でてくれる、その手つきがとても優しくてあたたかくてあたしはミルタンクに抱きついたまま声をあげて泣く。こわい、くるしい、さみしい、かえりたい、そんな取り留めもない気持ちを吐き出すあたしにもミルタンクは呆れることなくずっとあたしを抱きしめて話を聞いてくれていた。
 どれほど時間が経ったのだろう、少しずつ気温が下がり始めてきた気配がする。ようやっと落ちついたあたしはミルタンクから離れて頭を下げた。
「ごめんね、おはなしきいてくれてありがとう」
「みーるーる、みるも」
「……? きにするな、っていってくれてるの?」
「みる!」
 もちろんとでも言いたげに頷くミルタンクは、ポケモンとしての習性以上に心優しい「お母さん」のようだった。ケンタロスも気性は荒そうだけれど何を言うでも暴れるでもなくあたしが落ちつくのを待ってくれていて、あとでわかったことだけどこの子もこの子で他の凶暴なポケモンが寄りつかないよう見張ってくれていたらしい。
 ――そうだよね。どこにだって優しいポケモンはいてくれて、ぐずぐずワガママ言ってちゃダメなんだろうな。もしかしたらここに来たおかげで何か新しいことが始まるかもしれないし、いつまでもくよくよしてちゃいけない、悲観してちゃ何にも良いことは起こらなくて、むしろ悪いことしか起きないんだよね。
「ありがとね。ふたりとも、ほんとうにありがとう」
 なんとなく視界が開けた気がして、あたしはぐちゃぐちゃの顔を腕で拭う。深く長い深呼吸をして辺りを見回せば積み荷が無造作に置かれていて、そこに立てばもっと広い世界が見えそうな気すらした。
 ミルタンクに手伝ってもらいながらよじ登ると、けれどそこは思ったよりも高くなんかなくて、せいぜいその辺が少し見やすいかな、といったくらい。がっかりしたような安心したような心持ちで空を眺めると、そこには海とは違う「青」が広がっている。空の色は海の民の村で見ていたものと何ら変わりはなくて、そっか、ここにあったんだ、ここになら同じものがあって、空は繋がっているんだという実感が改めてあたしのなかに生まれた。
 高い空を見上げながら、ふと口ずさみ始めた歌。あたしの家に代々受け継がれてきた海の民の歌。人を愛し、ポケモンを愛し、海を愛し、世界を愛す。誇りと誓いを緩やかなメロディに乗せれば、ミルタンクとケンタロスが目を閉じて聞き入ってくれている。
 ――お礼に、なるのかな。あたしがこの歌を歌えば、2人は喜んでくれるのかな。
 背筋を伸ばして、胸を張る。息を大きく吸い込んで喉を奥を開くように、遥か遠い海まで届くように、あたしは体を楽器のように、そうして再び歌う。
 あたしの、陸で行う最初のコンサートが始まった。

長くなったので切りました
カキ不在、ごめん
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