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王子は今夜も跪かない

「ククイ博士、わたし、チャンピオンになりたいです」
 アローラ地方1番道路、ハウオリシティはずれにて。ククイ博士の住まうポケモン研究所の玄関先で、わたしは今日も決まった文句を口にする。


 それはもはや戯れにも等しかった。もう耳にタコが出来ると言われても仕方ない、なぜならわたしは彼と会うたびこの言葉を吐いている。
 顔をあわせるたびにこんな、絵空事のようなことを言われて博士はどう思うのだろう。うんざりする? 馬鹿にする? いいえ、博士ならきっとわたしの夢を否定しない。長らく理想を抱き続けていた彼ならば、そうして長年の夢を叶えたこの人ならば、わたしの儚い願いを無下に出来るわけがない。
「うん、うん。ぼくはなまえのこと応援してるぜ」
 案の定ククイ博士はいつも通りに柔らかく笑い、決してわたしの言葉を撥ねつけない。微笑む博士はわたしから高い空へと視線を移し、夕空をかけるツツケラの群れをゆっくりと目で追っている。夕陽のオレンジに染まった横顔の先、分厚いレンズの向こうにある景色にはいったい何があるのだろう? わたしにはとてもじゃないけど伺い知れない。この人が、強く、激しく焦がれ続けた夢の向こう、愛する人と共に見る世界を、わたしは一生知り得ない。
 少し前のこと。ククイ博士の元より旅立ったらしいトレーナーがあれよあれよと島めぐりを制覇し、エーテル財団の陰謀を阻止するだけに飽き足らず、まさかのまさかでこのアローラ地方の初代チャンピオンに就任した。持っている人は持っているのだなあ、きっとわたしのような凡庸な人間が持つべきだったものを、才ある人はじわじわと吸い取りながらその芽を育てるのかもしれない、そんなことを考えたのも記憶に新しいな。
 わたしは何も持ってない。わたしは何もかも平凡だ。否、むしろ人よりも劣っている。その証拠に島めぐりのパートナーだったコラッタはラッタになることもなく、そう、わたしはメレメレの試練のひとつすらクリア出来ないまま半年で島めぐりを辞めてしまった。
 それから5年。何もかもを持たないわたしは、16年という短い人生のなかでとうとう諦めることを覚えた。ダメだった、じゃあやめよう。出来なそうだ、なら他のことをしよう。そんなことばかりを学んで、覚えて、きっとわたしは世界のために出来ていないし、世界もまたわたしのことを必要としていないのだともう何度も実感した。
 そんなわたしが諦められないただひとつのことがある。それはもちろんチャンピオンになること――では、ない。この浅ましくも卑しいわたしは、「チャンピオンになりたい」という真っ当で輝かしい言葉の裏に汚れた欲望を隠している。
「なまえ、今日は一緒に気分転換でもしないか? 諦めないきみへぼくからのご褒美だ」
「! いいんですか?」
「もちろん! いつも頑張ってるみたいだしね」
 嬉しい、ありがとう、ククイ博士! ――なんて。嘘だ、うそ、全部ウソ。
 わたしは諦めてなくなんかない。わたしは頑張ってなんかない。ククイ博士ほどの人ならばこの肥えたコラッタを見ただけですぐわかることだろうに、この人はとても優しく酷な言葉をわたしに向かって投げつける。そしてわたしは、分厚い面の皮に醜い笑顔を浮かべながら、そのご好意に甘えるのだ。
「ハウオリシティまで行こうか。少しばかり歩くことになるけど、なまえならそのくらい平気だろう?」
 にこりと笑うククイ博士。優しい優しいククイ博士。わたしが控えめに頷けば、博士は更に笑みを濃くしてわたしの前を歩いてくれる。
 ハウオリシティへ向かう道中、草むらから突然ヤングースが飛び出してきた。夕暮れ時にはあまり活動しなさそうだけれどそうでもないのかな、しかしなんとなく寝起きのような惚けた顔をしていて、なんだか可愛いなとか、そんなくだらないことを考えた。
「この時間にいるのは珍しいな、ひとつバトルでもしてみるかい?」
「ええっ!? い、今は、その――」
「はは、そうか。確かにコラッタからしたらヤングースは天敵だもんな」
 わたしのしどろもどろな返答ですら、ククイ博士は深く追求したりしない。さらりと流して、話題を変えて、きっとわたしが何を考えて何を思っているのかなんて、わかりきっていることだろうに。
 ――ククイ博士。わたしは、チャンピオンになりたいです。“アローラ地方初めての”チャンピオンになって、あなたのお役に立ちたかった。あなたのために、あなたの助けに、そして、他でもないあなたにこれ以上なく必要とされたかった。わたしは――わたしは、あなたのことが好きだから。
 恋をした。ひどく焦がれた。胸が焼けつくような思いをした。初めて出会ったハウオリシティの片隅、ポケモンスクール前の道路へ飛び出そうとしたわたしのコラッタを、勇ましくもたくましいルガルガンと共に助けてくれたお人。まるで王子様のようだった。けれどわたしの友だちを助けてくれたその人には、一瞬でわたしの心を掠めとったククイ博士には、もう既に最愛の奥様がいた。
 あのとき感じた衝動、激情、まるでかみなりに撃たれたような衝撃は今でもこの体をびりびりと蝕んでいる。しかしわたしが「好き」だと自覚した、その直後にやってきた奥様と、奥様を見るあなたの目線でわたしは全てを悟ってしまった。仲睦まじいお2人の前で、わたしは引きつった笑顔を浮かべる。わたしの恋は誰に気づかれることも看取られることも摘まれることもないまま、言うなれば蕾をつける前にひとりで死んでしまったのです。
 あなたには愛する人がいた。あなたには既にかけがえのない伴侶がいた。あなたにはもう、誰にだって侵食できない、唯一無二のパートナーがいた。
 だからわたしはチャンピオンになりたかった。せめてチャンピオンとして、あなたの夢の助けとなって、あなたと近しい景色を見たかった。奥様を通すでなく、博士としての見識の向こうでもなく、アローラ地方の初代チャンピオンとして、そうしてあなたの隣に立ちたかった。
 けれど持たざるわたしにかような夢を叶える力は微塵もなく、なりたいと思った瞬間なにか特別な力に目覚めるようなこともない。わたしは主人公じゃない。わたしはヒロインなんかもなれない。日の当たる場所にある誰かのための引き立て役、または名も無き背景のひとり。きっと生まれたそのときから、その運命は決まっていて。
 だからわたしには、叶えられやしない、既に散り落ちた夢にすがってノコノコと顔を出すしかもう、あなたと触れあう術がなかった。
「――よし、着いた!」
「? ……あっ」
 ポケモンセンターを通り過ぎ、トレーナーズスクールを横切りながら辿り着いたのは、ハウオリシティのビーチサイドエリア。
 夕陽をキラキラと反射する水面は眩しく煌めいていて、思わず目をしばたたかせてしまうほど。ビキニのおねえさんやかいパンやろう、おじょうさま、他にも人はちらほらと見えるのに誰も騒ぎ立てるようなことはなく、ここにはひどく安らいだ静寂が横たわっている。ケイコウオが跳ねる水しぶきはいっそう景色を眩くさせ、まるで絵画のひとつのようにこの世界を彩っていた。
 ふ、と博士に導かれるままわたしは波打ち際へ足を踏み入れる。冷たい。けれど冷え切っているとも言いがたい温度はとても心地よく、沈んだ気持ちが少しだけ紛らわされた気がした。
 足元で遊ぶさざ波、ささやくように耳を撫でるポケモンたちの鳴き声、穏やかな空気。そのあまりの美しさと幻想的な空間に、わたしは今だけ、ほんの一瞬だけ、このわたしとククイ博士がこの世界の中心なのではないか、そう思ってしまったのだ。どこか別の世界にいるかもしれない、この人の隣に立つわたしなら、もしかすると世界の真ん中にいられたのかもしれない。
「きれい…………」
「だろう? たまにメレメレ海からサニーゴが遊びに来てたりするんだが――今日は留守みたいだなあ」
 辺りを見まわすククイ博士は、どこか残念そうに肩を落として笑った。キャモメが小さく鳴いている。サニーゴがお好きなのですか、そう尋ねると博士は強く頷いた。
「もちろん。ヒドイデという天敵にも負けず、諦めず、枝を折ってでも生きようとするその生への執着心、強く強く懸命にある姿はとても眩しいんだ。もちろん“とげキャノン”や“ロックブラスト”の痛烈さも外せないぜ」
 おそらく研究の過程でその一撃を食らったことがあるのだろう、鍛え上げられた腹筋をどこか感慨深げに撫でながら、ククイ博士は肩をすくめる。
「ぼくも見習いたい……なんてな、なまえもそう思うだろう?」
 その言葉の意味が果たしてどういったものなのか、わたしは理解しかねる。否、理解などしたくなかった。
 だって、それは、そんなものは、わたしとは正反対の場所にあるものだったのだから。
「……わかりません」
「なまえ?」
「わたしは――わたしには、そんなの、わかりません、ッ」
 ああ、もう、ダメだった。この問いかけが分水嶺。ぬるま湯とはもうおさらばしようと、もう今が潮時なのだと、わたしがわたしに告げている。
 ボロボロと溢れるのは涙。グズグズになってしまったわたしの感情のタガは完全に外れてしまったようで、みっともなく声をあげてわたしは泣く。
 それはまるで、あなたへの失恋を嘆いたあの夜のように。
「わかってるんでしょう、博士も、わたしがずるいやつだって、怠け者だって、わかってるんでしょう」
 ひどい、ひどい、なんてひどい。こんなのただのワガママじゃないか。
「わたしは諦めてなくなんかないです。頑張ってなんかないんです、ずっと嘘をついて、騙して、あなたのことを、」
「――なまえ」
「あなたに会いたいがためにわたし、卑怯なことをしてました、ッ最低なことを――!」
 ただ自分の欲望を満たすためだけに、わたしはあなたの夢を利用したも同じ。口実をつくって、甘えて、なんて醜悪。
 博士は何も言わない。ただ、わたしの名前を呼んでくれるだけ。はかせ、博士、ご存知ですか。わたし、あなたに「なまえ」と呼んでもらえるのがほんとに、本当に大好きでした。だってね、だってわたしは――
「好きです……っ。わたし、あなたのこと、好きです。大好きです、好きで好きで、苦しい……!」
「…………」
「あなたに奥様がいらっしゃることも、大切になさってることも知ってます。でも、でも……ッ」
 チャンピオンになることは諦めても。強くなることを諦めても。何かに打ち込むことを諦めても。
 ただ、あなたに抱いたこの狂おしい想いだけは、片時も消え失せることなくここにあった。目を逸らせないほど熱く大きく、そして激しくわたしの胸に巣食っては長らく蝕み続けた。
 浅ましくも、絶えず、強く。


「――なまえ」
 わたしの嗚咽が少し治まった頃。博士がわたしの肩に触れる。ぽん、と優しい感触で乗せられた手のひらは熱く、否、きっと彼に触れられたわたしの体が火照っているだけだ。
「ありがとうな」
 優しい。優しくて、苦しい声。
 こんな汚らしい顔で博士を見ることなんか出来なくて、わたしはまだ俯いたまま、ぐじゅぐじゅに滲んだ視界の向こう、お気に入りのスカートの裾と、砂まみれになったサンダルを見つめている。いま博士がどんな顔をしているのかわたしには全くわからないけれど、でもその声色でなんとなく感じ取ってしまった。博士もまた、つらそうに顔を歪めていること。
「はかせ、」
「……うん。うん、ありがとう、ありがとうな、なまえ」
 肩からゆっくりと頭へ移動する、優しくて大きなククイ博士の手のひら。いたわるように撫でてくれるその手つきが胸を締めつけて、わたしはこんなにも、まだまだこんなにもあなたが愛おしくてたまらない。「ありがとう」は言えど「ごめん」と告げないあなたの気遣いに、最後の最後までわたしは溺れ、甘えている。
 泣きわめくわたしを見放したのかそれとも憐れんだのか、沈みかけていた太陽はもうすっかり姿を隠している。やがてまあるい月が顔を覗かせ、静かなつきのひかりでこの真っ平らな夜を照らすのだろう。
 お月様、あなたはまた聞いてくれますか、このわたしの憐れな話を。夢見がちで堕落しきった意気地無しの弱音を、諦めきれないまま負けるしかなくなったわたしの涙を、あなたは照らしてくれるのでしょうか。
 ――さよなら、わたしの王子様。さようなら、大好きなククイ博士。
 あなたは――わたしだけの王子様は、決してわたしのものにはならない。


アローラ夢企画サイト、月兎様に提出させていただいたものです。
このたびは自サイトへの掲載許可をくださりまことにありがとうございました。
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