Fire Emblem

君の心が呼ぶほうへ

 歌が聞こえた気がした。
 グロスタールの屋敷のなか、ローレンツは誘われるように足を動かす。人よりも上背のある彼は歩幅もそれなりに広いのであるが、けれども貴族らしい所作のおかけで決して下品な運びではない。此度はまるで惜しむように足を運ぶためかいつもよりその速度はゆったりとしていて、この歌が終わらないように、巡りあった瞬間に止まってしまうことのないように、どこか祈るような気持ちで音の気配を手繰っていた。
 そうしてたどり着いたのは案の定というべきか、ローレンツにとってかけがえのない、無二の妻の部屋である。廊下と彼女の城を分かつ真っ白な扉は花の細工が美しく、これはグロスタール家へ移り住むとき彼女が――ナマエが描いた絵を見本に造られたものだった。
 彼女は芸術の方面にて人より秀でたものを持っているのだけれど、価値にそぐわず自己卑下の精神が非常に強い。それはローレンツの知らぬ間に彼女が姉から受けていた、虐待と言うにも生ぬるい仕打ちのせいであって、しかしローレンツにとって彼女の歌声は何物にも代えがたい清廉な響きをしている。惚れた弱みだなんだと言われたらそれまでだが、ただ彼女の歌声に関しては、かつて士官学校にて共に生活した亡き歌姫ドロテアや、今も交流のあるイグナーツがその質を証明している。
 ローレンツは、妻であり幼い頃からの友人であるナマエのことをこの上なく愛していた。彼女自身も、彼女が生み出すものも、何もかも。

「ナマエ……すまない、僕だ」

 こん、こん。名残惜しい気持ちを抱えながら、ローレンツはゆっくりと扉を叩く。
 途端、やはりその歌声は止まってしまったのだけれど……やがて聞こえてきた幼さの残る足音に、なんとなく胸が浮く心地がした。ぱたぱたと小走りの足音からうかがえるのは彼女がローレンツのことを拒絶しないという表れで、その気配を感じるたびに、ローレンツは安堵の息を漏らす。彼女の平穏を脅かしたくはなかった。

「ふふ、ロニーだ。いらっしゃい」

 想像よりも明るい声にローレンツは胸を撫で下ろし、すぐに開いた扉の向こう、小さく微笑む妻の姿を見る。今日は調子が良いのだろうか、にこにことローレンツの手を引いて部屋のなかへと招き入れてくれた。日当たりの良いこの部屋は壁紙も相まってどこか白んでいるような錯覚までして、ローレンツはたまに両の目を擦って目の前の存在がそこにあるかを確かめる。ナマエにはすぐにでも消えてしまいそうな危うさがあったからだ。
 いつもより片づいた机の上に目をやると、そこには真新しい五線譜といくらか書き込んだ音符が散見した。少し目で追っただけでそれがローレンツの好む旋律であるとわかるのは、それだけ彼女の作曲能力が高いということに他ならないし、何より昔から親しんでいたものであるがゆえ、そこには懐かしさという何よりも強い魅力がある。

「ごめんね、うるさかったかな」
「……いや、むしろとても心地が良かったよ。ずっと聞いていたいくらいだ」
「ええ〜? もう、ロニーったら褒め上手なんだから」
「何を言う、君の一番の支持者はこの僕なのだぞ。時間の許す限りここに……君の世界に浸りたいと思うのは、当然だろう」

 ローレンツが言うと、ナマエはくすくすと肩を揺らして笑う。知ってるよ、と返す声色はかつて少女だった頃を思い起こさせるようで、この部屋で少しずつ、ほんの少しずつではあるが彼女の傷が癒え始めていることを示してくれているようだ。
 部屋の奥にある観音開きの大窓は珍しく開け放たれている。ローレンツが扉を開いたおかげで風が通るようになり、五線譜や帳面をはたはたと揺らしているが……重しがきちんと置かれているおかげで、それらが宙を舞うことはない。

「今日はね、すっごく調子が良くて。お天気が良いからかな、何でもできちゃいそうな気がして……それで、歌を作ってみてたの」
「ああ……素晴らしい旋律だったよ。完成が楽しみだ」
「完成――うん、そうだね。今日の歌は、ちゃんと最後まで書けるかも」

 何かをやり通すこと。それは、かつてのナマエがひどく苦手としていることだった。
 意志薄弱という言葉を体現するかのごとく、ナマエは何をしても長続きしない、何も完成させられないような娘であった。書きかけの楽譜やぐちゃぐちゃになった帳面が部屋中に散乱していた、あの惨状をローレンツは決して忘れられないだろう。
 けれど、だからこそ今のナマエがひどく眩しく、健やかに映った。ようやっと朗らかに笑ってくれるようになった彼女のことを、ローレンツはずっと支え続けたいと思っているし、けれども無理に前を向けと言うつもりはない。彼女には彼女の歩幅があって、彼女なりにゆっくりと、少しでも安らかに毎日を過ごしてくれればそれでいいと考えている。世継ぎや家の問題はどんどん山のように積もっていくだろうけれど、限界までは自分だけで耐えてみせよう。それが夫であるおのれの責務であるとすら思うから。
 そして、その限界という名のいつかが訪れたとき。そのときは二人で話しあって自分たちなりの答えを導き出し、それがどんな結果になったとしても、自分だけは必ずナマエの意見を尊重してみせようと――ローレンツ=ヘルマン=グロスタールは、彼女と婚姻を結んだその日に固く誓ったのであった。

20201102

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