Pokemon

こんなのってないよ!

 一瞬の出来事だった。些細なきっかけでヒビキの視界は驚異的な速度で移り変わり、やがて真っ暗闇へと変貌を遂げる。
 目まぐるしい変化はヒビキから正常な判断力を奪い、たちまち脳内をフリーズさせた。

(あ――え、あれ……?)

 ……端的に言えば転んだのだ。何もないはずの、歩き慣れた歩道で。
 目の前が真っ暗になってしまったのも、べつにポケモンバトルに敗北したとかそんな大層な理由ではなく、単にこれから襲い来るであろう衝撃にそなえて目を閉じただけ。生物として当たり前の、反射的な行動である。
 ――情けない。蹴躓いてからのコンマ数秒、脳みその隙間に引っかかったのはその一点のみだった。
 
 せっかくナマエと――人知れず恋い焦がれている彼女との、出かける予定を立てたのに。
 勇気を出して約束を取りつけて、眠れない夜を何日も越えての今日だったはずが、睡眠不足のせいなのか否か、足元不注意によって情けないすがたを晒す羽目となってしまった。
 タマムシシティをゆっくり歩いて、噴水の前でのんびりおしゃべりなんかして。終始いっさいの滞りなく楽しめていたはずだったのに、もうそろそろ帰路につくかというギリギリのところで、よもやこんなミスを犯すことになるとは。
 背後に控えていたバクフーンはどんな顔をしているだろう。主人の失態に呆れているか、はたまた、あの心優しいポケモンであるから、もしかすると怪我はないかとこの身を案じてくれているかもしれない。
 それなのに。ここまでみっともないすがたなんかを見せてしまって、ナマエやバクフーンにどういった言い訳をすればいいか――まるで走馬灯のように一人と一匹の顔を浮かべながら、そんなことばかりを考えている。そうしてヒビキは、やがて襲い来るであろう衝撃に身を固くした。

 ――しかし、結局いつまで経ってもヒビキの体が石畳に叩きつけられることはなかった。
 硬くて冷たいそれは依然として訪れず、むしろヒビキの頬に触れているのは、石畳とは似ても似つかない柔らかくてあたたかな何か。
 寝不足のぼんやりした意識がそうさせるのか、ヒビキはほんの数秒間、目を閉じてそれに浸ってしまった。懐かしさと安心感を与えるそれはなんとなくいい匂いまでして、緊張で強ばっていたヒビキの心をゆっくりと解きほぐしていく。
 まるでふかふかのお布団に飛び込んだときのような、もしくは湯温四十度のお風呂に浸かっているようなリラクゼーション。言い換えれば極上のひと時である。
 そうして、うっとり夢心地に誘われていたヒビキの目を覚まさせたのは――頭上より降ってくる、ナマエの心配そうな声だった。

「ちょっと……ヒビキ、大丈夫?」
「はぇっ!?」

 刹那、一気に現実へと引き戻されて反射的に距離を取る。二歩半ほど離れた場所から見るナマエは、心配半分、呆れ半分といった様子だった。
 この瞬間に、ヒビキはすべてを理解する。
 自分の体を受け止めてくれたのは眼下の石畳などではなく、他でもないナマエ本人の体だったのだと。おそらく、つまずいたヒビキをすんでのところで受け止めてくれたのだろう。
 いくら年の差があるとはいえ、男に飛びつかれたら一緒に倒れ込んでしまいそうなものだが……腐ってもポケモントレーナーというべきか、体幹がしっかりしている彼女はヒビキを受け止めた程度で倒れ伏すほどヤワではなかったらしい。そうして、まるで抱きしめるようなかたちでヒビキを守ってくれたのだろう。
 ――しかし。

(ぼ、ぼっ、ぼくはなんてことを――!)

 幸か不幸か、ナマエはその胸元でもって、ヒビキを受けてしまったようである。
 年齢不相応に実ったそれはひどく豊かで柔らかくて、思春期に片足突っ込んだヒビキにはあまりにも刺的すぎた。自分が何をしでかしたのか、はたまた、あのままどうしようとしていたのか――おのれの愚行を再確認したヒビキには、もはや真っ赤になって縮こまるくらいしかできなかった。
 急にうろたえるヒビキを前にしてしまえば、さすがにナマエも何かを察したらしい。くすくすと小悪魔なふうに笑って、あろうことか中途半端にひらいた距離をぐっと縮めてきた。ひ、とヒビキの喉が鳴るのも、この距離なら聞こえていただろう。

「ちょっとおっぱい触ったくらいで、そんなに照れなくてもいいのに……それとも、もっと触りたかった?」
「えッ……は、はいッ!? ナマエさん!?」
「あはは、ごめんて。冗談だよ」

 ヒビキの反応がお気に召したのだろうか、ナマエはけらけらと笑いながら翻って、ヒビキの前を歩いていく。
 いやに堂々とした彼女の背中を反射的に追いかけながらも、ヒビキは心の中で頭を抱え、うだうだと叫びつづけている。おのれの体に降りかかった“のろい”をどうするべきかと、もはやそれしか考えられなくなっていた。
 ああ、きっとしばらくの自分は、あの感触を忘れられそうにないぞ、と。
 背後で呆れたようにため息を吐いているバクフーンには、いっさい気づかないふりをして。


ラッキースケベが書きたかったんですね
2022/10/08

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