Pokemon

縦と横とがまじわる先で

「いらっしゃい、ビオラちゃん。そろそろ家までの道で迷うことはなくなったかな?」

 小気味よく鳴るチャイムの音で胸が躍るようになったのは、一体いつからだったろう。
 俺がちょっとした軽口を叩けば、目線より少し下にある顔はすぐにふくれっ面になって、凛々しい眉を軽くつり上げてはあーだこーだと言い返してくる。ビオラちゃんはまけんきの強いところがあり、俺が何かしらからかうようなことを言うとすぐに可愛らしいレスポンスをくれるのだ。自分が年下なこと、パンジーの妹であること、どうにも子供扱いされているような気がすることなど、いつだったかに色々とその心中を語ってくれたことがあるけれど、俺としてはその言葉たちにはあまり意味がないように思えてならなかった。
 俺はビオラちゃんを子供扱いなんかしていないし、今となってはパンジーというフィルターを通して見てもいない。なぜならば俺は、彼女を異性として愛してしまったあの日に、そんなみみっちい感情はおしなべて取っ払ってしまったのだから。

「迷ったことなんて一度もありませんー! ナマエさんったらすぐにそうやって――」
「あーはいはい、スンマセンした。君が会いに来てくれて浮かれてるんだよ、俺も」
「むっ……ど、どうだか……!」

 玄関のドアを潜り部屋の中に入ったビオラちゃんは、まず携えたモンスターボールの確認をする。彼女のむしポケモンたちが勝手に出てくることがないよう注意を払ってくれているのだ。過去の出来事から俺がむしポケモンに強い苦手意識――苦手意識なんて軽い言葉で片づけられるものでもないが――を抱いていることを彼女はよく知っているので、恋人として心遣いを欠かさずにいてくれるらしい。
 何をどうすれば、どんなふうに彼女を見れば、こんなにもいじらしく健気なビオラちゃんを子供扱いできるというのか。そもそもとして彼女はもう既に立派な大人であって……まあ、そういった小さなコンプレックスのようなものを抱くのは弟妹にとってのあるあるなのだろう。俺は兄という立場であるが似たようなものに覚えがある。今となってはもう、どうでもいい話だけれど。

「部屋、今日は思ったより綺麗だね。リーネがしっかり片づけてくれてるんだ」
「あいつは働き者だからな……昨日もご褒美のミアレガレットをたらふく買わされたよ」
「あは、可愛いじゃない。まあでも、そうだね。このゴミ屋敷を綺麗にしてくれてるんだから当然かも」

 誇らしげに胸を張るチルットを撫でながら飾り気なく笑うビオラちゃんも、俺の目には非常に可愛く映る。惚れた男の弱みと言われてしまえばそれまでだが、それにしたってあまりにも、だ。
 写真家というアクティブな仕事に就いている手前ラフな格好を好む彼女は、ひとり暮らしの男の部屋に来るにはいささかガードが緩い。ゆえに俺はいつもそっけなく見えるらしい顔の裏側にて、色々な感情や衝動を思いっきり抑えつけながら、彼女とのひと時を過ごしている。
 ただ、そのせいで少々誤解を与えてしまう場面もあったようで――ならばお望みどおりにと本気で愛してやった日に、今度は本気で泣かれてしまった。これもまた、思い出したくない苦めの思い出だ。
 チルットを抱えたビオラちゃんは、勝手知ったるなんとやらですたすたと奥へ歩いていく。俺の部屋にやってきては片づいているかどうかのチェックをして、そのあといつもお気に入りの場所を見に行くのが、彼女にとってもはやお決まりのルーティーンとなっていた。

「ふふ……最新刊もちゃんと買ってくれてるんだ」
「そりゃあね。なんたって俺は君の大ファンですから」
「……うん。嬉しいな」

 汚い部屋の一角。ぴかぴかに片づいた本棚へと近づいたビオラちゃんは、彼女の写真集ばかり置かれているそこを嬉しそうに眺めている。
 彼女自身はもちろんであるが、俺は彼女の撮る写真がこの上なく好きだった。本物のむしポケモンはてんでダメな俺でも、彼女の写真を通せばたくさんの、イキイキとしたむしポケモンに触れることが出来る。美しくも生命の宿る一瞬を切り取った彼女の感性と技術に、俺は心底惚れ込んでいるのだ。
 ほんの少し前まではただ「写真家のビオラ」が持つ世界観を愛し焦がれていただけだったのに、俺は知らぬ間に彼女自身に対しても、胸を焼くような想いを抱いていた。最低と最悪にほど近い出会いを経た俺たちも今は最高で最愛の恋人同士となっていて、彼女のことを想うたびに俺は人の世の巡りあわせについて考える。運命とは数奇なものだと色んな人が言うけれど、きっと俺たちの辿った足跡もそのひとつに数えられるものではないだろうか。
 途端、彼女の背中越しにこみ上げるものを感じる。抑えきれないと言ってしまえばそれまでだが、俺は半ば衝動的にビオラちゃんを抱きしめた。突然後ろから引っつかれたことで当の彼女は肩を揺らして驚いていたが、あまり男性経験のない彼女がすぐに大人しくなってしまうことを俺はよくよく知っている。腕の力を少しだけ強めると応えるように細い手のひらが添えられる、そのいじらしいところがまた愛おしくてたまらなかった。

「ビオラちゃん」

 名前を呼んだ。再び肩を揺らしたビオラちゃんは、背後からでもわかるほどに頬を……否、耳までもをオクタンのように真っ赤にしている。
 きっと彼女はわかっているのだ、俺が今から何をしようとしているか。名前を呼ぶ声色で何をどうされるのか、一体なにが起こるのか、そんなことまでわかるほどに俺たちは蜜な時間を過ごしている。
 ただキスをするだけなのにここまでの反応を返してくれるのだ。こんなにも可愛い女の子を、果たしてどこの男が手放したいと思うのだろう。抱きしめた体をゆっくりとこちらに向かせ、強く目をつぶった初々しい彼女の顔を見ながら、俺は静かに顔を近づけてやわい唇を味わうのだった。


発掘してきたものその2。XY7周年おめでとうで書いたものでした
2020/10/12

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