細氷に光る懐刀

母を思う手

 ディミトリの朝は、ぼんやりとした頭痛から始まる。
 これでも一時期よりはずいぶんマシになったほうだ。かつては悪夢にうなされて一睡もできないことすらあったけれど、近頃は少しずつ睡眠時間も増え、いくらかは安らかな朝を迎えることができている。
 頭痛の次に知覚するのは刺すような寒さで、それによって隣にいるはずの妻がもうすでに朝支度を済ませていることも理解できた。

「ウィノナは、今日も早いんだな……」

 依然としてぼんやりとした意識のなか、愛おしい妻の名前が口からぽろりとこぼれ落ちる。自分のことを深く愛し、包んでくれる無二の人。血のつながりによってもたらされた、否、それよりも硬く強い愛でもって、妻としてこの城に迎えたあの日から、片時も離れず傍にいてくれる、ディミトリにとって大切な存在だ。
 とはいえ、それでもやはり細かな別行動はいくらでもあるもので。たとえば城下への視察だとか、王としての公務だとか、そういったのっぴきならない理由で離れることなんてままあることだ。人として生きていれば当たり前にありうる些細な別離であるが、しかし、彼女に甘えきってしまっているディミトリにとって、その些細なことがちくちくと刺さるときがある。
 たとえば、今のようにやけに物悲しい、星辰の節まっただなかの、厳しい冬の朝であるとか。

「……よもや、自分がそれほどまで甘ったれた人間になっているとはな」

 どうしようもない独り言を落として、ディミトリはけだるい体をゆっくりと起こす。寝室は魔道と暖炉によって適度に暖められているし、ウィノナに言われてすっかり着込んだ寝間着のおかげで苦しいほどの寒さはないが、それでも何やら胸のあたりがすうすうとして、ディミトリに寝起き独特の苦痛と、ほんの少しの寂寥感を与えてきた。
 寒暖差によって頭痛も少しだけ強まってしまい、思わず眉をひそめたとき。寝室の扉が重苦しい音を立てて開いた。重たい板の向こうから覗く顔は、ディミトリの様子を目に入れた途端、その藍玉の瞳を大きく瞬かせたのだった。

「ディミトリ……! ごめんなさい、もう起きていたのね。あなたがよく眠っているふうだったから、先に支度を済ませてしまったの」
「ウィノナ――ああ、そうだったのか。すまない、驚かせてしまって」
「いいえ、とんでもないわ。それよりもその様子……相変わらず頭痛がしてるのね。ならもう少し休むといいわ、今日の公務はすべてお休みだから」
「え――」

 言いながら、ウィノナはディミトリの手を優しく握り、再び寝台の波へと沈める。そのままディミトリのたくましい肩を――否、首までもを敷き布ですっかり覆い隠し、もこもこのもふもふに仕立て上げた。まるで、愛おしい幼子を寝かしつけるかのように。

「以前からドゥドゥーと計画していたの。今日はディミトリを休ませてあげましょうって」
「だが、今日は誕生祭の式典もあったはずでは」
「先生に丸投げしたわ。あの人ならうまくやってくれるでしょう」

 一瞬ぎょっとするディミトリであるが、少しばかりおちゃめに笑うウィノナを前に、結局体を起こすこともできなかった。もしかすると、柔らかい敷き布に包まれた今が想像より心地よかったせいかもしれない。ウィノナが隣にいてくれることも相まって、何やらひどく安らかな眠気まで誘発される。
 二度寝しそうになるなんてそれこそ数年ぶりのような気もするが――しかし、ウィノナの細い指に頬を撫でられてしまっては、とうとうその眠気にも、抗えそうに思えなかった。

「ウィノナ――」

 睡魔に食らわれる間際、ディミトリはとろけた隻眼を、愛する妻へと一心に向ける。なあに、と優しく首をかしげる所作は、ディミトリがずっと求めてやまなかった、“母親”のそれを彷彿とさせた。

「ずっと……そばに、いてくれるか。俺が、再び目を覚ますまで」

 とろんとした口ぶり。幼子然としたその物言いは、彼にたいする母性のありったけを、このうえなく刺激するようなそれであろうと思われた。

「もちろんよ。私、決して傍を離れないわ」

 ウィノナの言葉を聞いて安心したのか、とうとうディミトリは意識を手放す。やがて聞こえてきた寝息は彼にしてはひどく安らかなもので、いま抱いているだろう安心感の程を、このうえない優しさで教えてくれるものである。

「おやすみなさい、ディミトリ。今日くらいは、どうか素敵な夢を見てね」

 言いながら、ウィノナはそっとディミトリの額に口づけを落とす。彼の安眠を願い、誕生を祝うその口づけは、強い愛情と祝福を、誰よりもおおく孕んでいた。


お誕生日おめでとうございます。ずっと好き。
2022/12/20
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