細氷に光る懐刀

あどけなく、無邪気な

 ――今度こそたくさん一緒にいたい。あの頃より自由になった僕で、君のとなりにいさせてほしいんだ。

 まるで、魔道の爆発を目の当たりにしたときのように。アッシュのその言葉が耳の奥にこびりついて、いっさい離れないでいる。
 嬉しかった、のだと思う。アッシュがそんなふうに言ってくれたことが。誠心誠意、面と向かって、まるで求婚のような言葉をこの私に与えてくれたこと。私の愚かさを受けとめたうえで、しっかり応えてくれたこと。
 そして、その言葉どおりずっと一緒にいてくれることが、何より私を喜ばせた。
 あの頃と同じように――否、あの頃よりもずっと近く、親密な空気を伴って、アッシュは私のとなりにいてくれる。事あるごとに私を呼んでくれたし、時には背中合わせで戦った。お互いの長所を支え、短所を補い合いながら、私たちは戦乱の世をなんとか生き抜いている。
 私は今、これまでの辛酸すべてを差し出してもお釣りがくるくらいの幸福を味わっている。華やかなように世界は彩られ、陰鬱だった足取りは軽い。今までに見てきた世界はすべてが偽物だったのではないか――そう疑ってしまうほど、近頃の日々は幸せばかりがあふれていた。
 たとえば、時折メルセデスやアネットがにやにやとこちらを見てくるくらいの昵懇な仲でもって、私たちはあった。離れていた時間を取り戻すには、むしろ余りあるくらいに。


「そういえば、あのときあなたがくれた花って何だったのかしら」

 何気ないつぶやき、ちょっとした疑問。とりとめもない雑談の、足がかりのような気持ちだった。
 戦火の真っ最中とはいえ、ガルグ=マク大修道院はファーガスに比べればひどく豊かであり穏やかだ。一時は危ぶまれていたものの飢えない程度の食料は確保されているし、温室には瑞々しく草花が生い茂っていて、手入れもしっかりと行き届いている。
 なぜ私が温室の状態に詳しいのかと言われたら、近頃になって訪れる機会が増えたせいだ。
 それまでは別段、馴染み深い場所でもなかったのたけれど――アッシュが度々ここに足を運んで植物を愛でていることを知っていたので、自然と立ち寄ることは増えた。同じように植物たちの世話に励むドゥドゥーと顔を合わせることも多くなり、以前よりはいくらか親しくなったように思う。
 気づけばこの温室は私にとっても特別な場所となっていたし、草木と触れあえば気分が晴れるということを、二十余年生きていてやっと知ることができたのである。
 そんな日常の断片でふとよぎったのは、かつてのあたたかな思い出のこと。初めてアッシュと会ったときに贈ってくれた、大切な花の名前についてだった。
 小さくて白い、彼によく似合う可憐な花。私は植物には明るくないから、それがいったい何の花だったのかも結局わからずじまいなのだ。本で調べるにも記憶が曖昧なところがあるし、ならばもういっそ贈り主に訊いたほうが手っ取り早いように思えた。
 折良くアッシュは花に詳しいようなので、むしろこれこそが最適解であるような気さえする。
 私の問いかけにアッシュははっと顔を上げ、傾けていたじょうろを戻す。ちゃぽん、と気持ちのいい水の音がした。

「どうしたの、いきなり」

 何の話だ、と言わないあたり、アッシュにとってもあの日のことは色褪せないままでいるのだろう。その事実が嬉しくて、私は思わず顔が綻んでしまう。

「あなたの背中を見てたら、なんとなく。私はあまり花に詳しくないから、結局あれが何の花なのか、まだわからなくて」
「そっか……うん、そうだよね。お店で買うような花でもないし」

 アッシュは得心したようにうなずき、屈んでいた体を起こす。

「あの花、それほど珍しいものではないんだ。むしろとても一般的で、ガスパールにはあちこち咲いていたはずだよ。もちろんお城の庭にもたくさんあって……えっと、確か、この温室にも咲いてたはず」

 アッシュは辺りを見まわしながら、うろうろと温室内を練り歩いている。
 私は首を傾げながら後ろをついていき、やがて奥まったところでしゃがんだ彼の隣に腰を下ろした。目当ての花を見つけたらしいアッシュはそれを手折ることはせず、こじんまりとした花弁に手のひらをそえて、懐かしむように微笑んでいる。
 その横顔は私の記憶にあるアッシュよりもひどく大人びていて、どこか彼が遠い存在になったような、置いて行かれてしまったような焦燥感を引き連れてくる。アッシュ、と思わず声に出そうになるのをすんでのところで飲み込んだ。話の腰を折ることも、過去を想う彼の気持ちを邪魔することもしたくなかったからだ。

「スミレっていうんだ。僕、この花がすごく好きで」

 穏やかな声に誘われるまま、彼の手元に視線を戻す。
 よく見ると、そこには件の花と同じもの――スミレと思しき花がいくつも植えられていて、白以外にも複数の色をまとう花が穏やかに咲っていた。

「紫に、桃色……あら、青もあるのね。こんなに色とりどりだなんて思ってもみなかったわ」
「あはは、そうだね。僕が贈ったのは白だったし、そう思うのも無理はないかも。暖かいところを好む花だから、ファーガス北部ではあまり見ないかもしれないけど……この大修道院なら、中庭とかにも咲くんじゃないかな」

 よほどこの花が好きなのだろう、アッシュはひどく饒舌にスミレのことを話してくれる。まるで騎士道物語の話をふったときのように、くさび石の瞳もきらきらと輝いていた。
 うつむいている暇なんかなかった頃のことを思えば、彼の想いの程は簡単に想像することができる。
 きっとアッシュにとってスミレはひときわ特別で、それこそロナート卿との思い出がたくさん詰まっているのかもしれない。私が、この花に特別な思い入れを抱いているのと同じように。

「――」

 途端、私の知らないアッシュの気配を感じ、軋むように胸が痛んだ。
 しかし、それも道理なのだ。七年も離れて過ごしていたことに加え、士官学校を卒業してからはさらに五年の月日が流れているし、そもそも一緒にいた時間のほうが短いのである。そんな状況で相手のすべてを理解するだなんて、それこそ全知全能の神くらいにしかできないことだろう。
 頭ではわかっているつもりなのに、それでも胸は痛んで仕方ないし、淋しさはちっともなくなってくれない。離れては交わり、また離れてはを繰り返した反動なのか、今やほんの数時間離れていただけでも心に暗い影が落ちる。
 ――嗚呼、私は少しも変わっていない。相変わらずアッシュに寄りかかり、依存するような生き方をしている。一人で立っているような顔をしているくせに、実のところはいっさいそうでない自分のことを、私はひどく厭うていた。

(……本当に、最低だわ。むしろ、前よりひどくなってる)

 ただの淋しさとはちがう、もうひとつの感情が胸の奥に生まれていること。それも、私は嫌というほどに理解していた。
 ……嫉妬だ。気づけば私は、アッシュを取り囲む色々に対して妬ましさを覚えるようになっていた。
 自分の知らないアッシュがいることを許せないし、他の人間と過ごした過去が存在することも、仕方がないとわかっているのにどうしても咀嚼しきれなかった。割り切ることができないのだ。
 私のアッシュなのに、なんて子供じみたことを言うつもりはない。否、むしろ子供のわがままで済むのならそのほうがずっといい。そうではない。そうではないのだ。私のなかに生まれるどす黒いこれは、もっともっと粘っこくて、醜い女の情欲にも似たそれだ――

(私、もう、とっくの昔に気づいてる。自分がアッシュに対して、どんな想いを抱いてるのかなんて)

 その感情に名前をつけることだって、きっと食事の傍らにすらできるくらいの容易いことだ。
 けれど、それは今ではない。こんな戦乱の最中に、浮ついたことを言うべきでない。今はただ、そのどす黒い欲が表に出ないよう集中するのみだ。
 どうにか話を動かして気をそらそうと、私は平静を装い、アッシュの続きを促す。

「えっと……そうだわ。昔本で読んだのだけれど、花にはそれぞれ花言葉というものがあるのでしょう? この花にも――スミレにも、そういうのがあるのかしら」
「もちろん! スミレは紫色が一般的だから、全体的な花言葉もそれに則ってるんだけどね。君に贈った白とか、他にも黄色とか赤とか、実は色ごとにそれぞれの花言葉が定められていて……ええと、確か白は――」

 言いかけて、アッシュは突然言葉を切った。まるで静止の声でも挟まれたかのようにいっさいの瞬きすらしない。果たして何かを思い出したのか、変に思い当たるところがあるのか――どちらにしろ、その様子がひどく不自然であることは違いない。
 座り込んでいるおかげで、私たちの目線はほぼ同じ高さにある。ねえ、アッシュ、どうかした? そう声をかけるまで、私はぴったりと止まったままのアッシュの横顔を見つめていた。
 しかし程なくすると、意外にも彼は何か宝物でも見つけたかのように目を細め、くすくすと笑いはじめたのである。
 突然の様相に私は面食らってしまい、多少の狼狽を隠せないまま、再びアッシュの名前を呼ぶ。

「あ……アッシュ? どうしたの……? 何か変なものでも食べたのかしら」
「あはは、まさか。そういうのじゃなくて……ちょっと、大切なことにを思い出したんだよ」
「大切なこと……?」

 私が首を傾げていると、アッシュはその柔和な笑みを私に向かわせる。いつもより優しげに細められたそれは私の胸を強く掴んで、まるで張り裂けそうなくらい心臓を高鳴らせた。
 こんな動揺、悟られるわけにはいかない――! 私はなんとか平静を装うように努めるものの、それがうまくいったのかは迷宮入りだ。

「今はまだ言うべきじゃない、かな。この戦争が終わって、色んなことにケリがついたら改めて伝えるよ」
「ちょ、ちょっと……何よ、まるで死ぬ間際の騎士みたいなこと言うじゃない? そういう台詞、騎士道物語で嫌というほど見てきたわ」
「あはは、確かにそうかも」

 思い当たる一節でもあるのだろう、アッシュは無邪気なふうにくすくすと笑って私の言葉を肯定した。
 しかしそれもすぐに真剣な面持ちに戻ってしまい、どうやら私には一瞬の余裕すら与えられないようである。

「でもね、大丈夫だよ。君がいてくれるなら僕は絶対死んだりしない。君の存在そのものが僕に力をくれるからね。……あ、もちろん昨日や今日の話じゃなくて、それこそもう何年も前からそうだ」

 決意に満ちたふうに変わったアッシュの顔は、やはりひどく精悍で、凛としていて……彼が一人前の男であるという事実を強く叩きつけてくる。
 アッシュはわかっているのだろうか。私がこの顔にとても弱くて、こんなふうに言われてしまっては、まったくもって言い返せなくなるということを。

「そ――それは、その……私も同じ、だけれどね」

 歯切れの悪い言葉しか出てこない、自分がひどく悔しかった。
 ……本当に、末恐ろしい男だと思う。私はただされるがまま、やけに満足げな顔で笑うアッシュと、片隅に置かれたじょうろを交互に目に入れるばかりだった。



2022/09/25 加筆修正
20200807
- ナノ -