細氷に光る懐刀

雪は解け、草木はもゆる

「ねえ、ディミトリ。覚えてる? いつか私が、エーデルガルトに嫉妬していたって話をしたこと」
 それは、爽やかな風が吹く夏のことだった。
 フォドラの北方にあるフェルディアでは、夏といえど茹だるような暑さを感じることはない。ここは一年の半分以上寒冷な気候に苦しめられる土地であるから、国外の夏が暑く、非常に過ごしづらい季節なのだと知ったときは驚いた。その具合といったら、ガルグ=マクで暑さに呻いて数週間は思うように動けなかったほど。
 少し薄着をしても外を出歩ける今節は、厚着で肩が凝らずに済むので好きだ。剣を振るにも、生活を送るにも、やはり身軽なほうがいい。あまりにも身軽すぎると何か誤爆をしてしまいそうで怖くなるが、最近は夫婦ともども備品を壊す頻度が減ったので上々である。……壊れやすいものに触らないよう努めただけでもあるが。
 ウィノナの唐突な問いを受け、ディミトリは青い瞳を見開いた。何拍か置いて言葉の意味を飲み込み、そしてしっかりと頷いてみせる。
「ああ、もちろん覚えている。前後の会話も鮮明に」
「ふふ、私も同じよ。……あのね、本当はずっと伝えたかったのだけれど」
 露台から少し身を乗り出し、和らいだ寒さを浴びている城下の人々を眺めた。冬よりも数倍活気があるこの光景を見るのはもう何回目になるだろうか。妻として迎えられて早数年。運命の歯車によってはきっと幼い頃から見ていたかもしれないこの眺めを、ウィノナは思ったよりも好んでいる。
「私の嫉妬ってね、実は彼女だけに留まらないのよ。あなたをずっとそばで導いた先生にだって嫉妬する。あなたと対等な関係を築くフェリクスにだって、あなたが兄貴分として慕っているシルヴァンにだって、幼い頃からあなたと共にいた、イングリットにだって。それから……」
 言いかけて、やめた。流行りの本ならここで台詞外の言葉が続いているのだろうけれど、ウィノナはきちんと自分の意志で口を閉じ、言葉を切った。深い意図はない。ただこのまま話を続ければ、濁流のごとく嫉みがあふれてきそうだったからだ。
 目の端に映るディミトリは、ウィノナの言葉に静かに耳を傾けている。柔らかい光をたたえる隻眼が言葉を促すような視線を向けているので、再び口を開いてみた。どんどんと、せき止めていたものが決壊する。
「いつか私は、あなたが愛するこのファーガスに……いえ、フォドラという大地にすら気持ちを抱くことでしょう。……罵ってくれていいわ。自分がこんなに浅ましいだなんて、私自身驚いてるもの」
 ――ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド。救国王と讃えられる彼が背負うものは、妻として彼の隣に立つウィノナとは比べ物にならないほど多いし重たい。ともすれば指の動きひとつで街が滅んでしまうのだ。この数年間、そんな重責と戦っている背中を一番近くで見てきた。
 彼の言葉を、職務を、一挙手一投足を思うたび、ウィノナはいつも思い知る。彼が決して自分だけのものにはならないことを。彼が、一国の王であることを。国を想い、憂い、導く存在に他ならないことを。
「私の胸の内はいつも、あなたへの激情で燃えている」
 詩的な表現を使うとしたら、この地を白く染める雪、そのすべてを溶かしてしまえるほどの熱がここに在る。ウィノナの心はいつも燃えていた。ファーガスという土地には不相応な、煉獄の谷すら覆い尽くすほどの思いは激情と呼ぶに足るものだろう。
「愛しているわ、ディミトリ。この醜い嫉妬心も私の愛の内なのだけれど……受け取ってもらえるかしら?」
 口の端に笑みを浮かべながら、ウィノナは再び城下を見る。数年ここを見つめてみて、少しは王族としての自覚も芽生えてきたつもりだ。おのれに流れるブレーダッドの血、真っ赤な血潮にかけて、自分だってこの国を守ってみたいと思う。誰より愛おしいディミトリの願いも同じくそこにあるのだから、これからもっと王妃として、ブレーダッド家に連なる人間として、相応しい者にならなくてはと。
「……お前は気づいていないらしいがな、俺だって嫉妬くらいする。さすがにフォドラの大地とまではいかないが、それでも存外情けないものだぞ」
「ふふ、やあね。無理にあわせなくてもいいのに」
「あわせてなんかいない。ほら、例えば――」
 ふ、と暗く途切れた視界。意識を手放したのかと言われたらそうではなく、ただ目を塞がれただけだ。まぶたに優しく触れるのはおそらくディミトリの指の腹で、ようやっと手のひらで両目を覆われたのだと理解する。
 ウィノナが何かを言うより先にディミトリが重たげな口を開く。なんとなく辿々しい言葉遣いなのは、言葉を選んでいるからだろう。
「今だってそうだ。お前が、なんとなく、いつもと違う顔で街を見ているから……」
「もやもやした?」
「ああ。俺の知らないお前の側面を見ると……未だに、胸がちくりと痛む」
 そのまま手のひらで体を傾けられ、ウィノナはディミトリの胸板にもたれる形となった。分厚く、硬い感触がする。ゆっくりと離れた手のひらはすぐにウィノナの体を抱き、ふたりの様子に気づいたらしい城下の人々が騒ぎ出した。お熱いことだ、という野次に、とある辺境伯の男を思い出す。
「じゃあ、これからもっと知ってちょうだい。あなたの知らない私のこと、たくさん見せてあげる」
「そ、そんなにあるのか……? それはそれで複雑な思いだが……承知した、受けて立とう」
「冗談よ、冗談。ちょっとした戯れを宣戦布告みたいにしないで」


20200724
- ナノ -