降る、降る、なにが?

はじめて触れたもの

 セキに手を引かれながら帰路につき、とりわけ軽い足取りで集落へと帰ってきた。
 こんなにもおだやかな気持ちで帰ってこれる日なんてなかなかない――そんなことを考えながら、隣を歩くセキの横顔を何度も見上げた。いつもどおり自信に満ち溢れた彼の表情だったが、ヨヒラの灰色の瞳にはどことなく晴れやかなふうに映る。自分自身の心境が反映されているだけかもしれないが、その日の彼の横顔は今まで見てきたもののなかでいっとう好きだと、静まり返った直感が叫ぶ。
 ヨヒラの視線に気づいたセキがこちらに目をやって、うっすらと目を細めてくれる。その何気ない仕草すら昨日までとは打って変わって見えるのだから、本当に不思議だ。
 そうこうしているうちにあっという間に家まで辿り着き、当たり前のようにヨヒラを送ってくれたセキは、お出迎えのヨネ――連絡もせずに朝帰りをしたせいかいささかご立腹だったが――に事の経緯を説明しはじめた。ゆくゆくは一緒になることを伝えられた彼女は大きく息を吐きながら、「ずいぶん待ちくたびれたよね」とだけ言った。安堵と呆れに満ちた彼女の表情は確かな慈愛を湛えてもいて、改めて彼女からもたらされている愛情の深さを実感する。

「……ま、つーわけで祝言は追々だな」
「当前だよね。まったく、あんたってやつは昔っから突拍子もなく……それに付き合わされるこっちの身にもなってほしいんだけど」
「まあまあ、そう言うなって。念願の機会なんだからちったあ浮かれさしてくれや」

 二人の軽快な会話を、ヨヒラはなんとなくの夢見心地で聞いている。ヒノアラシのあたたかな体をぎゅう、と抱きしめながら、まだぼんやりとまどろんだような頭をなんとか働かせようと試みた。
 気持ちがふわふわしている――そんな表現が相応しいだろうか。これからは誰に遠慮することもなく、いくらかは胸を張ってセキの隣にいられるのだという実感が、未だ現実味を帯びていないらしい。
 黙りこくったままの自分に、二人からの怪訝そうな視線が飛んできているが……その疑問を払ってやるだけの気力なんてもの、今のヨヒラには残っていなかった。

「それじゃあヨヒラ、オレは一旦帰るぜ。また会いに来るからよ」
「えっ……あ、はい、」

 ぎこちない返事が口から漏れてしまって、ひどく気恥ずかしい。目の前の人たちはみんな変わりないようなのに、自分だけがいやに意識をしているようで、正直すぐにでも自室に戻ってしまいたかった。
 しかし、部屋に帰りたいと思うのとは裏腹に、此度の別れを名残惜しく思っている自分もいる。セキが帰ってしまうのが淋しくて、うつむく心と一緒にその腕に縋りつきたいという衝動にも駆られていた。
 縮こまっているヨヒラに何かを察したのか、セキが何かしらを考え込んでいるような気配が感じられた。反射的に顔を上げると、同時に彼の無骨な手が頬へとやさしく伸びてくる。やがてそれは顎へとすべり、ひどく丁重な手つきでヨヒラのそれをすくい上げた。
 刹那、至近距離までセキの顔が迫ってきたかと思えば、それを認識する間もなく、くちびるに何かが触れた気がした。やわらかなそれがセキのくちびるだと理解できたのは、にんまりと笑った彼がこちらに背中を向けた頃だ。

「じゃあな、ヨヒラ。またあとで!」

 立ち去るセキの背中に向けて、ヨネが何かを叫んでいるのがぼんやりと聞こえてくる――人目のある場所でなんてはしたない真似をするんだい!――真っ当な彼女のお叱りは呆然としたヨヒラの耳をするりとすり抜けて、集落の閑散とした空気にすぐ溶け込んでしまったようだった。


2024/04/07

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