降る、降る、なにが?

充満する匂い

ちょっとだけ背後注意


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  おう、ヨヒラ。ちっと疲れちまったからよ、そろそろ部屋で休まねえか?

 その誘い文句に導かれて、あたしはセキさんと二人、私室でひと息ついている。べつに何かがあったわけではなく、ただ二人で過ごす時間がほしかっただけだとセキさんは言うが――彼の真意がそこにはないことを、あたしは身にしみて知っている。
 
 てんやわんやの後にセキさんの元にお嫁に行って、もうどれだけの月日が経っただろう。周囲の反対はセキさんやヨネさんがすべて撥ねつけてくれたけれど、それでもやはり、未だ突き立てられるものは多い。一時期は収まっていた敵意も再び目立つようになり、あたしに向けられるそれはまたもや老若男女のすべてにのぼることとなった。
 けれど、全員が快く迎え入れてくれる婚姻ではないことなんて彼についていくと決めた日に覚悟していたから、「ぜんぜん平気」とは言い切れないものの、それでもまだ「耐えられる」範囲ではある。
 何より、見えない刃があたしの体を貫きはじめると、他でもないセキさんがいつもあたしを人気のない場所へ連れて行ってくれるから、あたしはこの膝を折ることなく、しっかり歩いていくことができる。ここならゆっくりできるだろ――そう言って、とっておきの穴場に連れて行かれたことなんて数え切れないほどあった。
 あたしを導いてくれるセキさんの背中はとても広くて、頼もしくて、愛おしい。彼のことを追いかけるたびにあたしは惜しみなく注がれている愛を実感することができるし、守られていることへの罪悪感をすべて取っ払ってしまうくらいの多幸感をおぼえるのである。
 ――もっとも、こうしてすっかり身を委ねきってしまえるようになったのは、つい最近のことなのだけれど。

 そして、その何気なくもちいさな逃避行は今この瞬間にも行われていた。今日はセキさんと二人でコトブキムラまで出かける予定があったので、出立の時刻まで時間を潰そうと集落を散歩していたのだけれど――そのおり、最後まであたしたちの結婚を反対していたうちの一人と出くわしてしまったのである。
 彼はひどく厳しい目をあたしに向けて、何も言わずに去っていった。攻撃こそ受けなかったけれど、後ろ姿に充満した拒絶の匂いはいつまで経ってもあたしにまとわりついて消えてくれなかった。そうして少しだけ歩みが鈍った頃、セキさんは苦笑いを浮かべるあたしを家へと連れ帰ってくれたのだ。
 自分の脆さに情けなさを覚えつつも、あたしはそのお言葉にあまえて、セキさんと過ごすあたたかな場所へと戻ってきた。いつも出迎えてくれるリーフィアたちのすがたがないことだけ気がかりだったけれど、誘われるようにそのたくましい膝のうえへと座り込み、隙間なくひっついてゆっくりと癒やされていた……のが、今なのである。
 肺いっぱいにセキさんの香りを吸い込むと、つらい気持ちも、痛みもすべて、追い出してしまえるような気がする。

「ずいぶん古くなっちまったな」

 セキさんの手が優しくあたしに伸びてくる。その指先は頬や耳を通り越して、あたしの髪にそっと触れた。
 無骨な指が撫でるのは、このヒスイにやってきてすぐの頃、全快祝いとして贈られた特注品の髪留めだ。あたしの名前と同じ花を模したそれは確かに経年劣化が見え隠れしていて、ほんの少し、本当に少しだけれど、傷んできているように見える。定期的に磨いたり、掃除したり、手入れは欠かしていないのだけれど。

「大事にしてるつもりなんだけどな……」
「わかってるさ。おめえがいっつも大事そうに付け外ししてるとこ、オレは毎日見てるからよ。この間だってそうだったろ? 共寝のときにわざわざ布団から抜け出して、小物入れまで仕舞いに行ってたし――」
「やー! もお! そういうのはいいでしょ、そういうのは!」

 突然共寝の話を持ち出してきたセキさんに、思わずおおきな声が出てしまう。厚い胸板をぽかぽかと軽く叩いてみれば、セキさんは口をおおきく開けてからからと笑った。
 普段なら気持ちの良いそれであるのだが――ひとしきり笑ったあとの彼の顔を見て、あたしは少しばかり嫌な予感を覚える。一瞬で笑いを引っ込めたセキさんが、いじわるなことをするときと同じかたちに、顔を歪めていたからだ。
 片方の眉をちょっとだけ浮かして、目を細めながらも口元はにんまりとしていて。この顔に何度いじわるを吹っかけられただろう。べつに泣いて逃げ出すようなことをされた覚えはないけれど、それでも今日までこの身に染みつけられた諸々を思うと、つい警戒心が沸々としてしまう。
 こ、このままだとよくないかも――! あたしは無謀にもセキさんの膝のうえから抜け出そうと試みるが、あたしの咄嗟の考えなんてものはやはり簡単におみとおしのようで、背中でがっちりと組まれた両手が退路のすべてを阻んでくる。
 それどころか瞬きの合間に端正な顔がすぐそこまで近づいてきて、頬を寄せられたり、額に口づけられたりと、めいっぱいの愛情を注がれる羽目となってしまった。
 べつに、この行為を嫌だなんて思ったことはないけれど――ひどく照れくさくてむず痒い、この感覚だけは消えてくれない。すぐにでも寿命を使い切ってしまいそうなくらいにうるさい、破裂寸前の心臓だけが心配だ。
 腕のなかで身じろぎするあたしに構わず、セキさんはずっとあたしに触れてくる。

「あ……あの、セキさん? 今日、コトブキムラまで行くって言ってなかったっけ」
「おう。その件なら昨日のうちに済ましといたぜ」
「えっ……あ、あたしっ、そんなの聞いてないよ!?」
「そりゃまあ、言ってねえからな。昨日のうちに向こうさんのほうから出向いてくれてよ。おかげで今日のオレは手持ち無沙汰で暇してんだ」
「で……で、でも、こんな昼間から――」
「それも問題ねえ。リーフィアたちに人払いを頼んどいたからな」

 とびっきりのコトブキマフィンを食わせてやる、って条件つきでな――言いながら、セキさんのくちびるはするりとあたしの首筋まで降りてくる。装束の隙間を縫って触れてくる湿った体温が、あたしにとっては刺激ばかりの、濃密な熱帯夜を思い出させた。
 ……はじめからこのつもりだったんだ。思えば、今日のセキさんはいつも以上にあたしのことを気にしてくれていた。たまの暇だからってやさしくあたしを導いて、結局はこうして頭から食べちゃうつもりだったんだ。

「ず……ずるいよ、セキさん――」

 鼓動がうるさい。それはあたしの体すべてに鳴り響いて、やがて指先がしびれるような感覚をおぼえる。少しずつ、どんどん鮮明に蘇っているのだ。たった二人で過ごす、かけがえない熱帯夜がもたらす熱の記憶が。
 セキさんは、やはりにんまりと笑いながら羽織りを脱ぎ、床のうえにそっと敷く。この行為が何を意味するかもあたしはすっかり覚えてしまった。布団を用意するような余裕がないから、と説明されたのは、果たして何度目のときだったろう。
 あたしの体はゆっくりとそこに横たえられ、同じようにセキさんが覆いかぶさってくる。……顔が近い。吐息が触れる。この距離感にはいつまで経っても慣れなくてすぐに顔を背けてしまうのだけど、そのたびにセキさんはあたしの耳にくちびるを寄せ、大好きな「いじわる」をしてくるのだ。

「夫婦の睦言を邪魔するような野暮なやつ、この集落にはいねえから安心しな」

 あたしは覚えている。奇しくも今日が、あたしたちが初めて通じあったあの日から、ちょうど一年の頃合いであることを。


LA一周年おめでとうございます!ずっと好き!
2024/01/29 加筆修正
2023/01/28

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