降る、降る、なにが?

太陽のようなあなた

 オオツは、ひどくおだやかな様子のまま言葉を続ける。そのさまは静かなさざなみのようでも、頬を抜ける海風のようでもあった。

「……すなおな気持ちを伝えるとね。俺は、ヨヒラちゃんとの縁談も悪くないな、と思ってる」

 そして、そのいやに落ち着き払った彼が口にしたのは、ヨヒラにとって予想外な、けれどもある意味とても有り難い、最上級の肯定だった。
 おそらくオオツは、此度の縁談にヨヒラほどの戸惑いを感じてはいないのだろう。

「君は、俺にとって数少ないお友だちだからね。俺のつたない話を静かに聞いてくれる、とても大切な女の子だ」

 彼の口から出てくるのはともすれば至上の愛の言葉であるのたが、しかし、その間オオツはヨヒラに向かって一瞥たりともくれなかった。その黒瞳はいっさい揺らぐことなく、ただ静かにオレンジの海を――水平線の彼方に至るまでを見つめているようである。
 決意に満ちたオオツの横顔が、ヨヒラの幼くもやわい心に、言いようのない不安と焦燥感を抱かせる。それはもしかすると、彼との「これから」がおおきな足音を立てて近づいてきた、その気配によってもたらされたものかもしれない。

「――でも、きっと君は……ヨヒラちゃんは、違うでしょう?」

 見えない怪物に恐れおののいたヨヒラがうつむくのと同じくらいに、オオツはそう言い放った。優しいくせに有無を言わさぬその言葉はヨヒラの心をはたくようで、下を向いたばかりの頭を、再びしゃんと上に向かせる。

「俺たち、知り合ってからまだ精々数ヶ月だけどさ。それでも、君の気持ちはなんとなくわかるんだよね」
「そ、そんな……あたしも、オオツさんのこと仲良しだって、思ってるのに」
「それはわかる。でも、きっと『そう』じゃないんだ」

 切なげに笑うオオツの顔が、ひどく胸を揺さぶった。
 やがてヨヒラを襲うのは、心臓を思いきり鷲掴みにされているような痛みと苦しみだ。ぎち、と気味の悪い音を立てるそれは、もとを正せばきっと自分に原因があって、つまるところ、痛みをもたらす犯人は他でもない自分である。
 自分のせいで痛いのに、どうしてだか、ヨヒラの胸の奥から湧き上がるのは意地汚い被害意識だ。それはコンゴウ団で過ごしてきた数年によって培われたものかもしれないし、もしかすると、おのれが生まれつき持ち得ていた性質であるのかもしれない。
 真実はいっさいわからないが――それでも、この期に及んでそんな意識に苛まれる自分がひどく情けなくて、瞳を強く閉じながら恥じた。
 ――ごめんなさい。口をついて出たその言葉が、オオツの体をきりさくような真似をするとわかっているのに。自覚したときにはそれはもう既に音の波を泳いでいて、今更取り消すこともできない。ヨヒラの吐き出した凶器は、目の前にある白波とは違い、ちっとも消え去ってくれなかった。

「……なんでだと思う?」
「え……?」
「俺が、ヨヒラちゃんを『そう』じゃないと思う理由。なんでかわかるかな」

 オオツは、依然として大海に目をやっている。黒瞳に夕陽の色が反射して、まるで宝石のように見えた。ふたつ並んだ黒瞳が少し潤んで見えるのは、きっとこのまばゆい橙が、強く刺さっているからだろう。
 ――どうしてだと思う? その問いかけにたいしての答えを、ヨヒラは口にすることができなかった。……怖いからだ。
 再びの恐怖におびえるヨヒラがすっかり口をつぐむと、オオツは口元だけでくつりと笑い、また静かな声で語り出す。

「ヨヒラちゃんは……多分、好きな人がいるんだよね。俺なんかじゃ手も届かないくらいの、とても立派で、素敵な人がさ。……そうだな、たとえばコンゴウ団のリーダーとか――」

 オオツが中途半端に言葉を切った理由。それは、彼の右腕に巻きついた、やわらかいリボンのせいだった。
 無遠慮なふうに紡がれるオオツの言葉を阻んだのは、二人の後ろに控えていたニンフィアだ。彼女はオオツの腕に二本の触角をからみつかせ、彼の意識をそっと逸らしたように見える。
 言葉もなく行われたニンフィアの行動に、きっとこの場にいるすべてが、何もかもを察したはずだ。
 ただ一人、ヨヒラだけはじっとうつむいたまま、ふるふると首を振っている。幼い手のひらはキツく握りしめられていた。

「……め、なの」

 もう、止められなかった。一度手をかけ、覗いた蓋は「閉まる」ことを忘れてしまった。ヨヒラの口からすべてが吐き出されるまで、そう時間はかからない。

「だめ、なの。あたし、あの人のこと、好きになっちゃいけなかった」

 まず飛び出したのは悲痛な叫びだ。細い喉が精いっぱい震えながら発すそれは、みっともないくらいの本音である。
 今までずっと言えなかった、胸の奥でくすぶる想いと、それを上回る罪悪感。もしくは罪の意識。まるで懺悔を求めるごとく、それらはみんな外に出ようとしていたが、しかし、ヨヒラの喉が吐き出すことに慣れていないせいか、言葉はすっかり詰まってしまった。

「あの、人は……」

 何も言えないであえぐヨヒラを慰めるように、再びニンフィアの触角が動く。それはふわ、と優しく撫でるようにヨヒラの手を握って、彼女は眩しく笑ってみせた。
 足元ではヒノアラシが寄り添ってきていて、あたたかなその体温に、すべての緊張が解される。
 愛おしい二匹の顔を見つめていると、さっきまでの詰まりはすっかり良くなったように思えた。……今なら言える気がする。ヨヒラは、小さな深呼吸を繰り返した。

「……あの人、あたしのせいでたくさん大変な思いをしてるんです。団内で色々意見が割れたり、不穏な空気になったり……そういうのを全部、あの人はおさめようとしてて」

 目を閉じて、かつての日々に思いを馳せる。
 ヨヒラがヒスイにやってきてすぐ――真っ暗闇から気がついたその直後に、セキはヨネと連れ立って、ヨヒラのことを見つけてくれた。
 しとしとと降り注ぐ雨のなかで、その大きくて頼もしい手をそっと差し出してくれたのだ。
 ……あの日のことは忘れない。「ヨヒラ」にとって初めての記憶は、広大すぎる自然への恐怖と、それをぬぐい去る彼の優しさだ。

「あたし――ここにいるだけで、あの人にたくさん迷惑をかけてる。疫病神みたいなあたしが、あの人の隣にいていいわけがないんです」

 すべては、人とポケモンを過剰に刺激してしまうらしい、自分の体質のせいで起こり得ること。自分が自分じゃなければこんなことにはならなかったのに。何度もこの体を呪って、何度も何度も枕を濡らした。何度も何度も、もはや数え切れないほどに、後悔と悔しさと苛立ちで、眠れない夜を越えてきた。
 結局自分は存在しているだけで波紋を呼んでしまうようだし、未だにそれは、緩和こそすれ改善されない。だからこそこうして縁談の話が持ち上がったのだろう。これがていのいい厄介払いであることくらい、いちばん最初に気づいていた。
 波の音はずっと消えない。耳の奥にこびりついたそれは底の見えない不安をこの足にまとわりつかせ、やがてすっかり竦ませる。人間なんて脆い生き物は、ちょっとした刺激でいとも簡単に歩けなくなる。進めなくなる。そうして、ずっと停滞したまま、ゆるやかに白骨が覗くのだろうと、そんな恐怖に心臓を掴まれ続けている。
 ヨヒラがここで見ているのは、目をそらすことも許されないような、強大すぎる退廃だ。

「それに……あの人、とってもモテるんですよね。オオツさんの言うとおり本当に素敵な人だから、あたしなんかよりもっと大人で、きれいな人と一緒になったほうがいい。そうしたらコンゴウ団もうまくまとまると思うし、集落の人から文句も出ない。……だから、あたしはあの人と一緒にいないほうがいいんです。あたしなんかと一緒にいたら、きっと、もっと苦労する。しなくていい苦労を、バカみたいに背負い込んでしまう。あたしに心配かけないようにって、たくさん無理をさせてしまうから」

 その言葉は、まるでおのれに言い聞かせているかのような、痛ましい響きを持っていた。

「あたしにとっての、太陽なんです。暗い気持ちを晴らしてくれたり、進むべき道を、優しく照らしてくれたりする。……でも、あたしはその太陽を曇らせてしまう。あの人のことを阻むみたいに、雨を降らせてしまうから」

 こんなあたしが傍にいたら、きっと、誰も幸せにはなれないんです――


「――じゃあ、どうして君はそんなに苦しそうな顔をしているの?」

 どれくらいの沈黙が横たわっていただろうか。
 長い、長い静寂の向こう側にて。先に口を開いたのは、やはりというべきかオオツだった。彼はヨヒラと水平線を交互に見ながらも、もうすぐ消え去ってしまうであろう夕陽に目を細めている。
 オオツが何を言わんとしているのか。いったい、何を考えているのか。皆目検討もつかないヨヒラは、うなだれた首をゆっくりと起こしながらも、ただ、彼の横顔を見るのみだ。

「俺は、その人について詳しいわけでも、ヨヒラちゃんほど親しいわけでもないけど――」

 オオツの気遣わしげな手のひらが、ゆったりとエーフィの体毛を撫でる。
 ひどく優しげなふうであるのに、どことなく懺悔的で、許しを乞うような指の動き。触れられているエーフィにこそすべてが伝わるその往復は、きっと彼女の思いやりや愛情をつよく刺激したはずだ。その証拠にエーフィは、二股の尾をくるくるとまわしながら、ぴったりとオオツに寄り添っている。

「ヨヒラちゃんの話を聞くかぎりでは、きっととても頼もしくて、立派な人なんだろうことがわかる。人のうえに立って、みんなの命を背負い、引っ張っていってくれる人だ」
「それは……そう、ですけど」
「そんなにたくましい人なら、君一人背負ったくらいではびくともしないと思うよ。俺みたいな情けないやつならともかくね」

 口元だけで、オオツは笑う。肩をすくめて、このしみったれた空気を少しでも払拭するように。
 それが彼なりの精いっぱいの優しさであることくらい、数ヶ月の付き合いしかないヨヒラにだってわかった。……わかってしまった。彼の言動に隠された、彼の思う、意図ですらも。

「俺たちみたいなちっぽけな人間はさ、たとえばエーフィのような予知能力があるわけでもないし、起こってもいない未来について考えていても仕方ないさ」

 それにね、と付け加えるオオツは、再びヨヒラのほうに目を向け――そして、ひどく晴れやかな微笑みを浮かべた。
 先立ってのそれとは打って変わった、彼本来のすがたを映す笑み。はにかむようでも、照れたようでもありながら、彼の心根のすべてをあらわす、唯一無二の笑顔である。

「その人も多分、ヨヒラちゃんのことをすごく大切に思ってるはずだよ。――きっと大丈夫さ。君は、君自身の気持ちと、君のいちばん大好きな人を、精いっぱい信じるべきだ」

 ――だって、その人について話すヨヒラちゃんは、今まででいちばんキラキラしていて、とっても可愛かったからね。


  ◇◇◇


 誰もいない夕闇の海岸で、オオツは一人、立ち尽くしている。隣に寄り添うエーフィは離れる素振りをいっさい見せず、心の底からオオツのことを案じているふうだった。
 さざなみの音と、ヤミカラスのなきごえ。少しずつ冷えてきた空気。ゆったりとした、けれども無情な時間の進みを、五感がこのうえなく突きつけてくる。
 冷える体をあたためるように、エーフィがひときわ強く体を擦りつけてきてくれる。いつも、いつまでもこうして連れ立ってくれる相棒の優しさに、擦り切れそうになった心が少しだけ癒えるのを感じる。

「……ありがとう、エーフィ。やっぱり、俺には君だけみたいだ」

 ふう、と長く息を吐く。
 力ない吐息は大気をわずかに揺らした程度で、それで劇的な変化が起こるわけもなかったが、オオツの胸に溜まった膿を取り出すには充分なものだった。かたちのないそれがすっかり消え去った頃、少しだけ視界が明るくなる。吐くものを吐いたおかげか、うなだれていたオオツの肩には少しだけ生気が戻ったように見えた。
 暗く、くすんでいた瞳はわずかながら光を取り戻し――そして、あらたな決意を覗かせた。

「なあ、エーフィ。俺、ヒスイを出ようと思うんだ」

 エーフィは予知能力のあるポケモンだ。ゆえに、オオツのこの言葉も、彼の意志も、ずっと察知していたのだと思われる。
 だからずっと主人のそばを離れようとしなかったし、ぴったりと寄り添っていたのだろう。エーフィはいっさい驚く様子を見せず、静かに語るオオツの口元を、じっと見つめているようだった。

「このヒスイを出て――ずっとずっと、遠くのどこかへ。俺たちだけの新しい世界へ行こう。この海を越えて、大地を開いて――どこまでもどこまでも、二人で一緒に旅をしよう」

 言うと、エーフィは今まで聞いたことがないくらい高らかに鳴いてみせる。
 すっかり暗くなった空を裂くようなそのなきごえは、雲の代わりに、オオツの腹の奥に溜まった鬱憤をすべて晴らすようである。
 まるで、未だ迷いの渦中にある彼を鼓舞するようなそれ。オオツは、相棒のとっておきのてだすけを、噛みしめるように微笑んだ。

「……ねえ、ヨヒラちゃん。俺にとっては君こそが、太陽みたいな存在だったんだよ」


2024/01/30 加筆修正
2022/12/22

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